Sandpit
クラウンのエンジンがかかっていたから、二人は外出するのもしれない。だとしたら、この前を通るころには、中へ戻っていたかった。こんな重労働を言い渡されるのは、初めてだった。ゴミ袋の中身は見えないが、湿っていて重いからひとつずつしか運べない。これをわざわざ自分に捨てさせる意味は、何なのか。優奈は額に浮いた汗をぬぐいながら、最後の一個を取りに車庫へ戻った。
さっきとは違ってクラウンのトランクは開いた状態で、その前に剛が立っているのが見えた。紙袋を大事そうに抱えていて、欠伸をかみ殺している。マリは巻いた髪のボリュームを復活させようとして、風呂場の近くで獅子舞のように頭を振っていた。それぞれ、自分の都合がある大人たち。でも、一台の車で今からどこかへ行くのは、間違いなさそうだ。優奈は最後の一個を掴み上げると、早足で車庫から出て行き、ゴミ捨て場までの短い距離を歩いた。車庫の中でトランクが閉まる音が鳴り、優奈が最後のゴミ袋をバッカンへ放り込んだとき、真後ろで自転車のベルが鳴った。
「え?」
優奈は振り返り、ヘルメットを被った修哉がすぐ後ろにいることに気づいた。
「洗面器、返しに来た」
修哉が言ったとき、優奈は自転車ごとその体を強く引っ張り、バッカンの裏側に押し倒すように移動させた。
「今は無理」
優奈は呟くと、自転車から体をなんとか引き離した修哉の体を、低く抑えつけた。
「中林さん、急にごめん。大丈夫?」
腕を頭に被せられた状態で修哉が言うと、優奈は一旦うなずいた後、首を強く横に振った。
「マジで、今は無理。今すぐ帰るか、ずっと一緒におってほしい」
「極端」
「静かに」
優奈はそう言うと、雨粒に瞬きをした修哉の口を、手で塞いだ。クラウンのエンジン音が車庫の中で響き渡ったとき、念を押すようにさらに声を抑えて、呟いた。
「お願い」
声を出す代わりに、修哉は一度だけうなずいた。優奈は手を離してゆっくりと立ち上がり、バッカンの表に回った。黒のクラウンがゆっくりと出てきて、青白いヘッドライトがこちらを向いた。小石を踏んでぱりぱりと音を鳴らしながら徐行してくると、クラウンは優奈の真横で止まった。窓が下がって、ぴんと腕を伸ばしてハンドルを持つ剛が言った。
「留守番、頼むで」
「はーい」
優奈は口角を上げて微笑むと、見送った。クラウンが信号を過ぎてからスピードを上げて、その姿が見えなくなったことを確認してから、バッカンの後ろへ走り込んだ。
「ごめん、後藤くん。マジでびっくりしたやんね?」
「大丈夫。今の誰? 大丈夫なん?」
「うん、今のは親」
優奈が即座に答えると、修哉は想像を独自に膨らませて、膝をぽんと叩いた。
「悪い虫に厳しい?」
「卑下しすぎ。後藤くんは虫ちゃうし。洗面器、ありがと。あ、ラップ! ラップかかってる、あはは!」
優奈はカゴから飛び出して地面に落ちた洗面器を見ながら、体を折って笑った。修哉はプレゼンをするように、広げた両手で指し示した。
「力作でございます」
優奈は洗面器を拾い上げて宝物のように胸の前に抱えると、部屋着のジャージ姿であることを今更思い出したように、俯いた。
「メッセージくれたら、もっとちゃんとしたのに」
「実は、送ってたりする」
優奈は慌ててスマートフォンをポケットから取り出すと、画面を眺めながら自分自身に力いっぱいため息をついた。
「あー、これに気づかんって。あかんわ、わたし。ごめん」
「大丈夫? 何回も聞いてごめん」
修哉が言うと、優奈はうなずいた。その目は、高林でも低林でもない。修哉が見ていると、ふと顔を上げた優奈は苦笑いを浮かべた。
「後藤くんこそ、こんな遅くに家の人に怒られへん?」
「塾から帰るのも十時回ってるからって、プレゼンしてきた。兄貴も今日は帰って来んやろし、真面目やからってそこまで制限されるのは嫌やわ」
早口で言い切ると、修哉は自分のパートが終わったようにぴったりと黙り込んだ。優奈はジャージの袖口を掴んで伸ばし、手を覆いながら言った。
「緑のライダー……。お兄ちゃんって、いつもどこに行ってるん?」
「内田っていう、同級生のとこかな。いや、今日はちゃうか。おれがいらんこと言ったから、例の事故現場の近くにある廃墟に行ってるかも」
修哉が言うと、優奈は袖で半分包まれた両手を合わせながら、言った。
「高校生の兄を廃墟に送り込んだ言葉って、めっちゃ気になる」
「昨日、いや今日の夜中か。なんか、ヤン車のセフィーロを追いかけてたらしくて。おれ、同じ車が廃墟に停まってるの見たからさ。ナンバーもついてなかったから、別の車かもやけど」
修哉は言いながら、こちらを見返した優奈の目にたじろいだ。その奥にある光は、ほとんど学校の先生のように落ち着いていて、感情の限られた部分だけを外へ出して燃やしているような暗さだった。
「そうなんや。さっきの話やけど、もう帰る?」
「極端な二択の話? もう、今すぐ帰る段階は過ぎたかも」
「絶対そう。なに喋る? なに喋る人やっけ?」
返す言葉が見つからず、修哉は首を傾げながら苦笑いを浮かべた。
優奈は、思わず同じ表情で苦笑いを返してから、気づいた。ずっと、笑うときの顔は決めてきたつもりだった。でも今はどんな顔をしているのか、自分でも分からない。ただ、修哉の瞬きを見たときは、自分も気づいたら瞬きをしていて、体が自然と行動のタイミングを合わせようとしているのが、不思議だった。
「今から行こう」
優奈が言うと、修哉は答えを求めるように辺りを見回した後、会話の流れから察した。
「マジで? 夜の廃墟はめっちゃ怖いで」
「往復三十分ぐらいやんな。チャリ取ってくるから、待っててよ。いい? 無理なら二度と頼まんから」
優奈が言うと、修哉は親指を立ててうなずいた。
「二度とチャンスがないなら、今日行くしかない」
「ありがと。ちょっと待っててな。わたし、女子の中では世界で四番目ぐらいに準備早いから」
神様。
車庫に向かって走りながら、優奈は空を見上げた。ここまで来てコマを戻したら、許さない。剛とマリは車で出て行った。修哉には、どこにも帰ってほしくない。でも、セフィーロを見に行った可能性がある兄のことは、到底放っておけない。
あの、シルバーのセフィーロ。運転していたのが誰にせよ、危険な相手だ。見上げるような大男だった昌平を殺したのだから。その後のことは知らないが、剛とマリですら出て行くのだから、相当手強いのだろう。とにかく自分の目が見たことは、ナンバープレートも含めて、全て剛に報告した。
そのための、屋上キャンプだ。
なぜなら、わたしの役割は『見張り』だから。
適当に理由をつけて喫茶シャレードから出てきた寧々は、遠くに建つ中林環境サービスの社屋を見上げた。専務取締役でいながら、中に入ったことすらない。今は、怒りで目の前が薄暗く見える。中林家が仕切る『運び屋稼業』には、厳密にルール化された役割がある。