Sandpit
緊急通報ボタンに触れようとしたとき、話し声が聞こえてきて水島は全ての動きを止めた。細く呼吸をしながら耳を澄ませていると、会話はトランクの真上を通り過ぎて、少し離れたところに居場所を見つけたらしく、そこで続いた。テープ越しでも声を張り上げれば届くだろうが、会話の主は自分をトランクに監禁した張本人である可能性が高い。だとしたら、自殺行為だ。水島はそこまで考えたとき、自分たちの最重要目標だったシルバーのセフィーロを、頭に浮かべた。突然左折して視界から消えたと思ったら、こちらに向かってきていた。
わたしは、あいつらに捕まったのだ。バイクから振り落とされて、空が見えたのを覚えている。あの、恐ろしい音。それがセフィーロとバイクの衝突音なら、ノブはもうこの世にいない。水島は思考を先回りして泣くために顔を歪めたが、涙は一滴も流れなかった。その代わりに顔を出したのは、今すぐテープを全て引きちぎってトランクをぶち破り、手当たり次第に仕返しをしたいという、怒りを通り越した感情だった。手に力が籠ったとき、緊急通報の表示が出ていたスマートフォンの画面が消えて、水島は現実に無理やり引き戻された。通報できたとして、テープ越しに内容を聞き取ってもらうためには、相当声を出さないといけないし、外にいる誰かの耳にも届くだろう。かといって、小声で話すために口元のテープをうまく剥がせたとしても、もう貼り直すことはできない。警察が来る前にトランクを開けられたら、そこで終わりだ。
水島は意識を切り替えた。通報はできない。でも、スマートフォンのバッテリーは残っている。できるだけ音を立てないようにリュックサックを引っ張って背中側に戻すと、顔の前に残ったスマートフォンをトランクの端に押し付けて、ボタンを押した。緊急通報の代わりにロック画面を表示すると、鼻の頭を使ってパスコードを入力し、位置情報アプリを立ち上げた。現在地を確認したが、山道ではあったが、道路の番号だけではどこにいるのか皆目分からなかった。まずは、誰かに現在地が伝わるだけでもいい。メッセージを打つのは、時間がかかりすぎる。水島はチェックインのボタンを鼻で押すと、頭を動かしてスマートフォンを引き寄せ、体の下に敷いた。どこかはさておき、ここにいるということは仲間内に伝わったはずだ。目的をひとつ果たした水島は、少しだけ軽くなった体を捩りながら、整理した。体の下に隠したスマートフォンを出して、パスコードを鼻で押して解除するまでは、所要時間は三十秒ほど。今のところ、これぐらいしか抵抗できる手段はない。そこまで考えたとき、大事なことを思い出して、水島はスマートフォンを再び体の下から引き出した。そして、鼻の頭でスマートフォンを操作して、通知設定をオフに切り替えた。危ないところだった。余計な音が鳴って、体の下を探られでもしたら終わりだ。元の体勢に戻って、水島はさらに考えた。
相手は、自分をしばらく生かすつもりでいる。なぜなら、呼吸ができるようにトランクの底に小さな穴が空いているからだ。周りがガムテープで養生されていて、後から加工したもののように見える。だとしたら、この車は監禁仕様だ。
そして、どこかのタイミングで、このトランクは確実に開けられる。
朝の大騒ぎから一転して、トミキチの元へ積荷は届けられた。ヤマタツを通じて労いの言葉が返ってきたのが、一時間前。今は夜の七時で、山道で発見されたアウトランダー脇の死体と積荷を結び付けられないよう、どこか神頼みのように夜空へ期待を向けている状態。日が暮れるまでネットカフェで時間を潰してからホームセンターに立ち寄り、漂白剤とウエスを買った。そして今は、河川敷の道路から死角になる例の場所に戻ってきている。三国は、柿虫と顔を見合わせた。セフィーロがいない。
「ここやったな?」
三国が訊くと、柿虫は小動物のように屈みこんで、目を凝らせた。
「はい、ここでした」
まるで、ふたコマ漫画だ。しかし、ここにはオチなどない。結果だけだ。三国はスマートフォンをポケットから取り出すと、吹谷のスマートフォンを鳴らした。証拠を消す作業が待っていたのは間違いないが、単独で『後処理』をするような気の利いた奴だとは思えない。
「出んな」
「盗まれたんでしょうか」
柿虫は探偵のように中腰でタイヤの痕を追いながら、呟いた。カニ歩きのような滑稽な姿に、三国は笑った。
「それで、なんか分かるんかいな」
「吹谷さんは、運転は丁寧です。はい」
柿虫は、地面を指差した。土をえぐり取るような、タイヤの痕。三国はその痕が結構な長さでアスファルトまで続いていることに気づき、感心したようにうなずいた。
「あいつは、こんな急発進せんか。やとしたら、モッサンや」
モッサンがどうしているかは、ヤマタツに聞けばすぐに分かる。でも、こちらから聞けるような関係性ではない。必ず理由を聞かれるし、吹谷と連絡がつかないからだとは言えない。
「三国さん、家には帰らんのですか?」
柿虫が体を起こして、手についた土を払いながら言った。三国はうなずいた。
「これかて、誰に見られてるか分からんし、尾行とかされて家を知られたくない。お前も帰らんな?」
「自分は、帰っていいとは言われてませんで」
柿虫は精密機械のように薄暗い光を込めた目で、三国の顔を見返した。三国はその目を見返しながら、思った。ヤマタツは、柿虫のこういうところを気に入っているのだろう。命令は絶対で、河川敷の石を拾い上げて、それで自分の頭を殴って死ねとヤマタツが言えば、おそらく柿虫はその通りにする。この後のことを考え出すと、急に空気が分厚くなって、体中がべたつくように感じた。三国は体に張り付いたシャツを浮かせると、河川敷から橋を見上げた。
「ちょっと、風呂行ってくるわ。メシでも食うといてくれ」
「あの、自分もいいですか」
慌てたように柿虫が言い、三国は肩をすくめながらうなずいた。わざわざ一緒に銭湯に行きたくはないが、風呂に入るなとも言えない。川を渡り、スマートフォンの地図が示すもっと近い銭湯へ歩きながら、三国は中林環境サービスのホームページを開いた。産業廃棄物の処理業者で、社長は中林剛。写真を見る限り、作業服を着ているその姿は、今朝喫茶店で見たときよりもだいぶ若い。置物に触れるように剛の肩へ手を置く長身の女は、巻き髪を振り回していた妻で間違いない。沿革を頭に入れ、役員の名前に目を通した。専務取締役は、岡安寧々。集合写真やブログを見ても、それらしき人物は写っていない。
ブログを読み進めている内に、銭湯へ続く道を行き過ぎていたことに気づいて、三国は方向転換して足を早めた。柿虫が慌てて後ろをついてきて、三国よりも先に全国共通の温泉マークを見つけた。『スパまつおか』という屋号を掲げる銭湯は、造りこそ古いが綺麗で、地元民らしき人間で混み合っていた。手早く風呂を済ませて、コンビニで替えのシャツを買ってこなかったことを後悔しながら、三国はさっきまで着ていた服を再び身に着けた。こういう状況が続くと、一秒でも早く家に帰りたくなる。風呂が遅い柿虫を待っている状況だと、特に。