Sandpit
吹谷が歯の隙間から息を吸い込み、下手な彫り師が落書きのようにインクを染みこませた刺青だらけの腕で、額を拭った。三国はスマートフォンを吹谷に渡すと、首からかけたタオルで汗を拭い、電池が切れた懐中電灯を手に持つ柿虫の前まで、つかつかと歩み寄った。
「捨てたのが見えたって、そう言いたいんやな?」
柿虫がうなずいたとき、三国は笑顔を作って一旦顔を引き、そのまま鼻に頭突きを入れた。後ろへ飛ばされた柿虫は空中に柱があるように手をあちこち振り回したが、何も掴めるはずもなくセフィーロのボンネットの上に倒れ込んだ。鼻血が出てくるのを手で触っている内に手と上着が少しずつ汚れていき、その様子に三国は笑った。
「それは血や。なんでそのときに言わんねん」
「ドアホ〜。ドアホドアホドアホ〜」
吹谷が即席のメロディに合わせて歌い、スマートフォンで地図を開いた。
「てか、どこで? そもそも、おれらどの道から来たっけ?」
空気がしんと静まり返ったとき、吹谷は小柄な柿虫の首を掴んで持ち上げた。
「お前に聞いてんねん」
常に腫れているような大きな手に締め上げられて、柿虫の顔は見る見るうちに紅潮して真っ赤になった。スニーカーがばたばたと宙を切り、三国は、ホラー映画の殺人鬼に捕まった被害者のようなその姿に、腹を抱えて笑った。声が出尽くしても吹谷がまだ柿虫の体を持ち上げていることに気づいて、三国はようやく吹谷の肩を掴んだ。
「おい、死んでまうぞ」
吹谷は手をぱっと離し、柿虫は重力に引っ張られて地面に落ちた。森羅万象に小突かれて、脇に追いやられてきた男。それが柿虫だ。スリを得意技とする二十五歳で、ちょうど三十歳に差し掛かった三国と吹谷からすれば、小僧ですらない。頭ひとつ身長が低い、ただのパンチングボールだ。しかし、妙に記憶力と観察力が良いことから『上司』からは重用されている。
物理的に流通する様々な品物を、目をつけられない程度に薄く広く強奪する組織。仲間内で『金魚すくい』と呼ばれるシステムを作り上げたのは、今年四十歳を迎えたトミキチ。七三分けの黒髪に黒縁眼鏡という、ひと昔前の保険のセールスみたいな外見。長身であること以外は、それといった特徴がない。ただ、その頭の中は宇宙だ。妙な横文字を多用するから、その真意は余計に分かりづらい。部下は、二年前にケンゾーが事故で死んで以来、ヤマタツとモッサンの二人。この二人は共に三十五歳で同じ高校の出身らしいが、性格は完全に真逆だ。ヤマタツが理詰めで物腰も柔らかいのに対して、モッサンは感情先行型で手がつけられない。その上、自分の都合を最優先するだけでなく、他の人間の都合を消し去るという最悪な特性があるから、モッサンがかじ取りをしたら最後、他の人間は言うことを聞くだけの機械に徹するしかない。失敗したら、あの物騒極まりないシルバーの拳銃で、ロシアンルーレットの標的にされる。構成員が脅されたり暴行を受けたりする場所は決まっていて、それは山奥にある。正式名称は『西浅香スポーツセンター』。元はアスレチック活動ができる場所で、オーナーがトミキチ本人だから、無法地帯だ。ほとんど遊具が残っていない荒れ地で、『バラエティ広場』と呼ばれている。
とにかく、状況的にバラエティ広場行きだけは避けたい。そのためには、今ここで起きたことは絶対に伏せておく必要がある。三国は地面に這いつくばって咳き込んでいる柿虫をライトで照らすと、光の帯を右へ振った。ダークグレーのアウトランダーと、そのリアハッチ前でうつ伏せになって倒れたまま動かない、本物の死体。免許証によると、名前は西川昌平。身長百八十センチ強、体重はおそらく三桁。首の後ろには、ついさっき刺したばかりのナイフが突き立っていて、柄は真っ二つに折れている。市街地からずっとこの車を追いかけてきて、袋小路に追い込んだときは簡単に終わるだろうと予測していた。降りてきた男は横にも大きく、吹谷が体当たりしてもびくともしなかった。殺すのに必死だったのは認めるが、実際に欲しかったのは、この大男が捨てたと思しき荷物の方だ。骨折り損に終わって『金魚すくい』が成立しないとなると、ケンゾーが収まっていた空席はさらに遠い存在になる。人がひとり死んだとなると、尚更だ。三国はライトを男の死体から逸らせると、小さくため息をついた。吹谷も同じ席を狙っている。もしかしたら柿虫ですら、記憶力を武器に売り込むつもりかもしれない。大きく異なるのは、守るものがあるかどうか。二人は独り身だが、自分には家族がいる。妻の雪美と、二歳になる娘の愛実が。
三国は気分を切り替えるように深呼吸した。雪美は、不在がちな夫のことを商社勤めだと思っている。結婚前にトミキチと一回だけ会ったことがあり、横文字を連発する上司だということで納得した。周りにはもう別れたと伝えてあるし、何より家族を守るために必死だということだけは、悟られたくない。
「しずかに……」
柿虫が呼吸を徐々に落ち着けながら呟き、三国はライトで顔を照らした。
「何?」
「なんとかは、しずかにって……、壁に書いてました」
柿虫が言い終えたとき、吹谷は記憶と結びつけて首を縦に振った。『授業中はしずかに』。中学校の壁だ。ちょうど山道に入る前に通った。がらんとした片側一車線の道で、線路の真下を通るアンダーパスに差し掛かったとき、車体が浮いたように感じたのを覚えている。そして、しばらく走った後にその壁があり、川を越えてからは本格的な山道になった。男のアウトランダーが横滑りしながら左折した交差点には、コンクリート造りの大きな廃ホテル。逆に辿れば三十分程度の距離だ。頭にぼんやりと土地勘が生まれ始めて、吹谷は三国と顔を見合わせた。さっさと戻って、積荷を回収すればいい。柿虫が服に付いた土を払いながら立ち上がり、吹谷はシルバーのセフィーロを振り返って、キーをくるくると回しながら呟いた。
「とりあえず、戻るかー」
「今、何時?」
優奈が訊くと、礼美は音量が抑えられて籠った声で言った。
「三時前。ヤバいわー」
優奈は缶コーヒーを一気飲みして冴えた目で、夜空を見上げた。星が見えるわけもなく、だらしない紫色の雲に遮られている。こんな夜は、礼美の少しざらついた細い声が命綱だ。いつも落ち着いていて、聞いているとすうっと体が軽くなる。対してこちらは、礼美からよく『栓が全部抜けた声』と言われる。それについて礼美がどう感じているのかは、正直分からない。周りは、対照的な性格のコンビだと言う。丸川礼美は落ち着いていて、毒のあるユーモアを好む。中林優奈は、気さくでハイテンション。優奈は鼻から細く息を吐いた。一応、できるだけ機嫌の上下がないように気を遣っているが、もちろん上手くいかない日もある。
「おーい、優奈ちゃま。寝たー?」
礼美が言い、優奈はテントの生地にもたれていた体を起こした。
「考えごとしてた。なんしか、後藤くんとは適度な距離を保ちたいねん」