Sandpit
一
ふと光った、四月の夜空。自分の部屋から窓越しに見上げていた丸川礼美は、スマートフォンを耳に押し当てたまま、言った。
「今の、流れ星? 見えた?」
礼美が首を伸ばしかけたとき、電話の向こうで中林優奈が慌てたように応じた。
「ちょい待ち、ちょい。何も祈ったらあかんで。もう祈った?」
「祈ってないよ。なんで?」
「神様、あまのじゃくやから。ほな逆にしたろって、意地悪されんで」
深夜二時を回った。礼美は窓から離れて布団に戻ると、頭まで掛布団を被って体を丸めた。優奈とは幼馴染で、今垣第三中学校の二年生になった今もその関係性は変わっていないし、奇跡的に二年連続で同じクラスだ。席を近づけると話が止まらなくなるという噂は引き継がれているらしく、担任の林先生は緊張した顔をしている。それ以前に、今年の終わりには十四歳になっているというのが、未だに信じられない。礼美は布団の中に籠る熱気に目を細めた。エネルギーをハイテンションな日中で使い尽くす優奈が夜更かしをしているのは、珍しいことだ。
「優奈、テンションやばいな。朝、起きれる?」
礼美が言うと、散々笑ってもエネルギーが一向に目減りしない優奈は、食いつくように答えた。
「いけるいける。どっちかゆうたら礼美の方が低血圧やんか。テーケツやん」
「なんで二回言うたん? 私は寝んと思う。もう朝まで起きてるわ。そしたらコーケツで血がピューてなるで、朝から」
「あはは、血がピュー。血がピューって」
優奈はいつも、面白いと感じたフレーズを一度言葉に出した後、もう一度言いながら笑う。いつもと変わらない笑い声に釣られて、礼美は笑った。優奈のテンションは日替わりで、高いときは『高林』、低いときは『低林』と呼び分けられている。先に笑うのをやめたとき、今日は体育の授業がない日だということを、礼美は思い出した。オールでも、体を動かせば眠気は飛ぶ。しかし、ずっと授業だと机にめり込む勢いで寝そうだ。
「先生、寝かしつけてくれるかな」
「他人に求めすぎ」
そう言う優奈の声がひときわ大きくなり、今夜も屋上にいるということに礼美は気づいた。中林家はコンクリート製の三階建て社屋。屋上には優奈の『キャンプ場』がある。寝袋やテントが置いてあって、通称は何の捻りもなく『屋上キャンプ』。去年から始まった習慣で、暖かい季節になると誘ってくれる。家業は『中林環境サービス』。産業廃棄物の処理業者で、爽やかなターコイズブルーのトラックが目印。父はやや小柄な体に空気をパンパンに張ったような見た目で、名前は剛。読み方はゴウで、知り合いにツヨシやタケシと間違えられると、都度誇らしげに訂正するらしい。黒のクラウンを片手ハンドルで乗り回し、いつも作業服姿で眼光が鋭いから、近所の子供からは怖がられている。かなり年下の母は片仮名でマリ。直線が一切存在しない派手な茶色の巻き髪は、時代遅れを一周回って逆に新しい。授業参観での立ち姿がモデルのように独特で、陰では『ミスコンさん』と呼ばれている。
対して丸川家。家業は『喫茶シャレード』。昔は二階が雀荘だったが、ロゴの跡が残っているだけで今は使われていない。フライパンで何かを殴っているような手つきで何でも焼き上げる健と、頭の中がスイーツの百科事典でエプロンからヘアピンまで全部着崩している京美。客商売をするために生まれてきたような、我が両親。その切れ上がった口角は、カウンターの後ろに立っていないときの表情を知る娘からすれば、不自然極まりない。
健は意外に神経質で、事故のトラウマがあるから車の運転は一切しないし、右足首に大怪我をしたから、今でも右には体重を乗せようとしない。だから、鮮やかなブルーのスズキソリオを運転するのは、京美の仕事だ。あと数年経てば、多分自分も仲間入りする。
そして、京美は誰とでも仲良くなれそうなオーラを放ちながら、何面にも分かれた鏡のように掴みどころがない。古い音楽が好きで、壁に貼ってあるポスターのほとんどは、結婚したときに実家から持ってきたものだと言っていた。仕事中は笑顔を絶やさないが、客のひと言が棘のように抜けずに、夜になっても鏡をじっと見つめているときがある。
でも、二人とも娘に喜怒哀楽を隠すタイプではないし、何より店が生きがいだ。その証拠に、オマケのように手狭な自宅が裏に併設されている。目を盗んで出入りする方法は何通りもあって、よく泥棒に入られないなと感心する。
色々と文句を言い出せばキリがないが、やはり店を切り盛りしている二人はすごいと思う。ただ、自分はコーヒーを作る側ではなくて、楽しむ側でいたい。礼美は、屋上で夜空を見上げる優奈のほっそりとした後ろ姿を想像しながら、言った。
「屋上、今から行きたいわー。朝までしゃべり倒したい。もう抜け出すルートも見えてるもん」
「不良ムッスメー。まだ寒いよ。春を待ちいさ」
本当に寒い。優奈は肩をすくめながら、緩やかな風から逃れてテントのファスナーを開いた。毛布に包まりたいぐらいの寒さな上に、静けさが余計に体感気温を下げている。電話の相手は丸川礼美、通称レミたん。大親友だと決めつけているが、相手がどう思っているかは分からない。テンションのアップダウンがジェットコースター並みに激しい自分とは、全く違うタイプ。礼美は常に冷静で正気を失わず、頭の回転も速くて言葉遊びが上手い。優奈は鼻の奥に引っ掛かりを感じて、リュックサックを地面に置きながら息をひゅっと吸い込んだ。
「失礼、くしゃみ出る。あ、ほんまに出るで」
「しいや。先に、お大事にて言うとくわ」
礼美が言い、優奈は笑いながら一度くしゃみをはじき出すと、深呼吸をしてから、見下ろすほどの高さでもない町並みに目を凝らせた。片側一車線の県道を一本挟んだ先には我らが学び処、今垣第三中学校が見える。特徴は、要塞のようにグラウンドをぐるりと囲むコンクリートの壁。白い塗料で『授業中はしずかに』と大きな文字が書かれている。外を走る車や人に向けたメッセージだ。でも、静かにすることで実際の恩恵を受けるのは、中で授業中に寝ている生徒なのだから、皮肉なものだと思う。優奈が眠気で落ちそうになった瞼を無理やりこじ開けたとき、礼美は電話の向こうで小さく咳ばらいをしてから、声を落として言った。
「今日は後藤くんの話、全然せんやん。雨降るんちゃう」
優奈はテントの中でリュックサックの中身を空けながら、首に挟んだスマートフォンに目を向けて言った。
「これからする。あ、今日は夜から雨らしいで」
「え? 今なんて?」
肩で息を切らせている三国が言い、柱にもたれていないと足から崩れそうな吹谷が、歯の隙間から息を漏らせた。深夜二時半。三国が手に持つスマートフォンのライトが唯一の光源で、今は人ではなく地面を照らしている。柿虫は何気ない言葉が注目を浴びたことで、猫背をさらに丸めた。
「いや、捨てたっつうか。見えたっつうか……、はい」
三国は、吹谷と顔を見合わせると、汗まみれになった顔を柿虫に向けた。
「はいって、なんやねん? クッションか?」