Sandpit
二
行きはそれとなく時間を合わせていても、帰りは別々。校内でも男子グループと女子グループに分かれているから、優奈や礼美と話すタイミングというのは、それほどない。今日は昼休みになるのと同時に二人とも机へ突っ伏して寝たから、余計に話せなかった。
終礼が終わって全員がぞろぞろと学校から出て行く中、修哉は外履きに履き替えて、周囲を見回しながら上履きを下駄箱に押し込んだ。あの二人と話すタイミングは、この下駄箱から自転車置き場までの短い距離だけだ。自分は、このまま塾に行かなければならない。
自転車で通学し、学校が終わったらひとつ離れた駅まで自転車で向かい、塾での授業を受けたら家まで自転車で帰宅。エンジンがついていないだけで、二輪に乗っている時間は拓斗とさほど変わらない。拓斗は『一緒にすんな』と怒るが、実際にはヘルメットを被っているところまで同じだ。
ちょうど十六時になったとき、女子グループから礼美が勢いよく飛び出してくると、目を合わせた。優奈はまだグループで話している。礼美と言葉を交わすまでもなく、修哉は一緒に優奈の話が終わるのを待った。二人は、学校帰りに喫茶店に寄る。まるで大人みたいだが、礼美の実家がその喫茶店という特典があってこそだ。いつかは自分も行ってみたいが、大人が周りにたくさんいて、二人は怖くないのだろうかと思う。
「後藤くん、やっぱ塾?」
外履きをそっと地面に置いて、礼美が口角を上げた。修哉がうなずくと、礼美は目線だけを優奈の方に向けた。
「優奈、低林やねん。静かでいいんかもしれんけどさ」
修哉は目を細めて、優奈の様子を観察した。そのテンションに応じて『高林』や『低林』とあだ名をつけられているのは、知っている。女子グループと話しているその背中はどこか頼りなく、早く帰りたいようでいて、だまし絵のように、どこへも帰りたくないようにも見える。
「心配やね」
修哉が言うと、礼美は感心したように肩をぽんと叩き、歯を見せて笑った。
「それでよろしい」
「何が? 正解のリアクションってこと?」
「うん。私も高林の方が好き。これから本屋行くから、そこでテンション戻るかも」
ようやくグループから抜け出してきた優奈が靴を履き替える様子を、修哉はじっと眺めた。確かに、その仕草はいつもより静かだ。大抵は上履きを床に置くときに、大雑把な巨人がかるたをしているような破裂音が鳴る。優奈は顔を上げて、修哉の表情をまっすぐ見据えた。
「おっ、今日も塾? まだ終わりちゃうぞって、顔してる」
「終わらんね。終わってほしいけど。今年から、ほぼ毎日塾よ。夜十時に終わって帰るとか、ほんまおかしいと思うわ」
修哉は鞄を肩に掛けなおして、二人と並んで歩き始めた。自転車置き場までの距離は二十メートルほど。言いたいことがあるなら、まとめておかなければならない。
「十時はエグいな。前、塾までの繋がり悪いって言ってたやん」
礼美が言った。修哉はうなずいた。愚痴を覚えてくれているのは、どちらかというと恥ずかしさの方が勝つ。学校から塾までの距離は、二十分ほど。しかし、授業が始まるのは一時間後だ。わざわざ家に戻るのは勿体ないし、どれだけゆっくり漕いでも時間は余る。
優奈はその愚痴に心から共感できるように何度もうなずき、紙パックのジュースから突き出たストローを前歯で捕まえると、くたくたになった鞄の位置を両手で調節した。先生に怒られないか、修哉が代わりにひやひやしていると、両手が空いた優奈は紙パックを左手に持って会話に参戦した。
「でも、学校に居座ってたら怒られるもんな。図書室は喋られへんし」
「後藤くん、コーヒーは飲めるん?」
礼美が言い、修哉は肩をすくめた。
「普通に飲む」
その食い気味な答え方で、おそらく好きではないのだろうと礼美は理解した。あんな苦い飲み物、素直に美味しいと思えるわけがない。修哉は自分の口から飛び出した発言を修正するように、早口で続けた。
「いや、苦いからとっつきは悪いんやけど。その道のプロはブラックで飲むらしいやん。ああいうの、憧れるよ。渋いし」
「その道のプロって」
礼美が笑うと、優奈は礼美の背中を鞄ごと揺すった。
「プロおった、ここに。あはは、コーヒー飲むのにプロって」
背中を支点に揺すられ、礼美は頭をがくがく前後に振りながら、修哉に言った。
「うち喫茶店やから、時間調整にちょうどいいかも。大人の階段のぼりたいときは、おいで。ちな、丸川オリジナルブレンドは四百円です」
「マジで? ありがと。コーヒー代貯めとくわ。てか、中学生が渋い顔してたら、怒られへん?」
「友達は全然アリよ。親に言うとくから、大丈夫。渋い顔だけやめよう。うちらの年齢的に、渋さは限界あるし」
礼美がそう言ったとき、背中を揺する手が止まった。優奈は紅潮した頬を押さえながら俯き、修哉と目が合うと明後日の方向を向いた。
「今日は? いや、予定あるよね。ちゃうわ、うちらが予定ある。だいたい、そんな急にあかんわ。わたしのお店ちゃうし、勝手に決められへん。勉強がんばって。行け! 大学に! バイバイ!」
早口で結論まで言い切ると、優奈はすたすたと足を早めた。礼美と修哉は取り残され、顔を見合わせた。礼美はしばらく宙を見上げた後、ふと思いついたように言った。
「先、高校やろ」
修哉はうなずきながら、息を漏らすように笑った。学校を出る前に、高林になった。二人で盛り上げたとまでは思わないが、早足で歩いていく後ろ姿を見ていると、少なくとも自分たちがその背中を押したという自覚が湧いてくる。自転車置き場に折れる直前で、修哉は礼美に小さく頭を下げた。
「丸川さん、また明日」
「うん、ほなねー」
礼美が早足で優奈を追いかけ、修哉は自転車置き場に向かった。自転車を押しながら校舎から出て、塾の方向へ車体を向けたとき、遠くで優奈の声が聞こえた。
「進んだ、コマめっちゃ進んだ。サイコロの六出た。レミたん天才」
一体、何の話をしているのだろう。修哉はヘルメットを被り、サドルにまたがった。優奈の声だけは、他の人間に混ざっていても自然と聞き分けられて、耳に入ってくる。川を越えて上り坂に差し掛かり、修哉は足に力を込めた。塾から指定された経路は市街地を抜ける賑やかな道だが、山道を少しだけ走って、ぽつんと浮かび上がるような交差点を右に曲がっても、隣の町へ辿り着ける。少しだけ遠回りだが、車や信号に気を遣いながら市街地を抜けるよりも気楽だし、この道の方が寄り道にうってつけだ。
しばらく山道を走った後、修哉は交差点の手前でペダルから足を離してスピードを落とした。車回しにつながる草は、何かがくぐり抜けたように所々折れている。新今垣観光ホテルは、麓が観光地だった昭和後期の名残りだ。こんな話を優奈と礼美にしたら、笑われるかもしれない。しかし昔から、こうやって打ち捨てられたものが好きだった。廃墟として有名らしく、県外からも時折『来客』がある。自分にとって完全に解放された放課後の時間は、塾に行くまでの余った数十分だけ。だから月に何日かは、こうやって訪れて無人の空間を楽しんでいる。