Sandpit
車両事故による渋滞が、十七キロ。それを示す電光掲示板が出たときには、すでに流れが遅くなっていた。西川は、じりじりと動く車列の中で、周りを観察した。前を走る社用車と思しきプロボックスの運転席では、男がスマートフォン越しに何かを話している。おそらく、得意先に遅れることを連絡しているのだろう。右隣で不安定な排気音を鳴らす古いシビックは、おそらくマニュアル車だ。突然始まった渋滞に人一倍苛ついているのは、間違いない。各々、事情がある。音信不通だった息子が死んだというのも、そのひとつだ。時間は、午前十一時半。流通センターには十五分前に到着している予定だった。だとしたら、新藤からそろそろ電話が入っても不思議ではない。筋トレをするようになって、誰も面と向かっては文句を言わないようになった。その分、顔を合わせないで済む電話での会話が、熾烈になったように感じる。新藤は特にそうだった。今までは気にならなかった様々なことが、頭の大半を占めている。逆に慣れ親しんだはずのことは、ことごとく現実感を失った。ふそうスーパーグレートの十トン車に乗って、数年。その操作は手足の延長のように感じられるぐらいだったが、今はそのハンドルも、シフトノブも、全てに現実感がない。目の前に広がる景色も同じだ。高速道路の黒いアスファルトと、真っ白に塗られた車線。停まっている車の窓からだと、異様に大きく見える緑色の案内板。自分の時計だけ時間が止まり、そこに取り残されたようだ。
どうにか時間の針を進める方法を考え出したとき、ふと梨沙子のことが頭をよぎった。まだ、電話で短く話しただけだ。ハンズフリーをつけると、西川は梨沙子の番号を鳴らした。電話に出たその声は、朝よりも途切れがちで、力がなかった。
「寧々は、すぐ来てくれたわ。やっぱ、おってくれると落ち着く」
「良かった。渋滞にハマったから、予定より遅れる」
西川が言うと、梨沙子は自分たちが置かれた状況のすべてを嘲るように、鼻で笑った。
「予定やと、明後日やんな? 今日、帰れるん?」
「仕事は休む。積荷は空やから、ちょうどええわ」
触覚を失ったように高速道路を走っているだけだが、荷下ろし後で空っぽなのは本当だった。西川が言葉を切るのを待って、梨沙子は言った。
「殺されたかも」
「昌平が?」
西川が訊き返すと、充分に長い沈黙が流れた。そういう商売に身を置いていたとしても、不思議ではなかった。どこかに就職先を見つけたというのは、もちろん知っていた。当然、そのきっかけはおおよそ親らしいものではなく、梨沙子が知らない口座へ生活費を振り込まなくなったということに気づいたからだったが。何もかも回り道で、実情を知ってきた。だから、昌平の死を知るのも遠く離れた土地で、殺されたかもしれないということを聞くのも、電話越しなのだ。当たり前のようにも感じるが、息子がやることの何にも、関われなかった。
「警察が言うてたんか?」
西川が訊くと、梨沙子は声を落とした。
「警察は教えてくれへんかったけど、寧々が言ってた」
「あいつの言うことを当てにするな。実家に行くなよ?」
「分かってる」
梨沙子の口調から伝わってくるのは、寧々が『そうしよう』と言えば最後、夫である自分がいくら忠告したとしても意味がないということ。寧々には、人の意識を自由自在に操る魔力のようなものがある。問題は、その予測が大きく外れることもないという点に尽きる。梨沙子と寧々は、特に犯罪に関しては経験豊富な一家に育った。だから、寧々が『殺された』と言うときは、それは当てずっぽうな言葉ではなく、状況や時間帯から導き出した答えだ。それを受け入れている自分が嫌になるが、犯罪歴のない自分には、答えはない。少なくとも、梨沙子にとっては仲のいい妹だ。
「今日は、一緒におってもらえよ」
「うん、おるって言うてた」
通話が終わり、西川はさっきから目の前の景色になって動かない案内板を見上げた。何度も休憩したことのあるサービスエリアが、三キロ先。スマートフォンの渋滞表示では、十七キロどころか次のジャンクションまで渋滞が続いているように見え、ニュースによると、火災すら起きているらしい。下道に降りるか考えているとコンソールの上に置いたスマートフォンが鳴り、西川は無表情のまま目線を落とした。予測していた通り、新藤。自分が逆の立場でも怒るだろう。通話を始めるなり、新藤は言った。
「流通センター。電話来たぞ。まだ、顔出してないんか? 今日、何やねんお前」
「渋滞してます」
西川は目の前の車列を眺めながら呟いた。パソコンを操作する音が聞こえ、続いて新藤の声が戻ってきた。
「どの道、通ってんねん。どこも混んでないぞ」
「十七キロって、出てます」
「お前、それ逆ちゃう? はあ、分かった。流通センターには竹田を回すから、お前は西に行け。十六時、倉橋ロジ。これ飛ばしたら、お前もう終わりな?」
次の段取りまで考えてから電話をしているのは、新藤らしい。西川は返事をすることなく、通話を終えた。このトラックのエンジンさえ動いてくれれば、仕事のことなどどうでもいい。それに、新藤にだけはどうしても、息子が死んだということを言い出せない。話せば、ありとあらゆる力を使って自分を解放してくれるだろう。しかし、それは一週間の慶弔休暇が空けたら、また仕事に復帰するということが前提だ。
今、頭の中には、その『あと』のことが全く浮かんでこない。