Sandpit
モッサンはそう言うと、腕時計がぶらつく左腕を振って、吹谷の頭を小突いた。バックミラー越しに見れば、はっきりと分かる。道路を走る人間は、前を走る車にずっと視線を合わせることはない。標識を見たり、道路脇を見たり、それなりに周りを見回すものだ。しかし、このバイクの場合は運転している男だけでなく、その後ろから少し顔を出している女の方ですら、セフィーロの後部から視線を外そうとしない。
「お前、誰かに見られたか?」
吹谷は、言葉で心臓を刺し貫かれたように、表情を強張らせた。
「何をですか?」
「それを聞いてんねん」
モッサンは、普段運転しているマニュアルの癖で、シフトレバーの位置に一度左手を動かすと、その手をセンターコンソールに置いて続けた。
「後ろのバイク、お前の知り合いか? ちゃうとしたら、何? 多分、ずーっとついてきよるぞ。それはなんで?」
吹谷は小さく息をついた。この短い間に、一体何度覚悟を決めなければならないのだろう。しかし、人が死んでいる以外で伏せていることがあるとすれば、もう目撃者の話だけだ。
「夜中にも、一度見かけました」
吹谷が言うと、モッサンは鼻息を勢いよく吐いた。
「はよ言え」
セフィーロのアクセルを底まで踏み込み、モッサンは時速百キロを指したスピードメータ―を見て、目を丸くした。
「これ、結構出ますな」
急速に流れ出した景色を見て、吹谷はドアグリップを掴んだ。自分の運転なら、これぐらいのスピードを出したことは何度もある。しかし、モッサンの頭のネジは一本残らず抜け落ちている。三十五年に渡る人生の中で、何度も締めなおすたびに大きなネジに取って代わり、おそらく合うネジはもう残っていない。
「でもな、吹谷」
モッサンのかしこまった口調に、吹谷は思わず首をすくめた。恐る恐る横顔を見ると、時速百キロで山道を疾走する中、モッサンと目が合った。
「加速っちゅうのは、どんな車でもエンジンさえ良かったらいける。問題は、曲がれるかや」
モッサンはブレーキを軽く踏むと、ハンドルを素早く左に切って廃ホテルの看板が傾く側道にセフィーロを飛び込ませた。小石や木の枝を踏んで車体が機関銃のような音を鳴らし、荒れた舗装を踏んで車体が跳ね上がった。廃ホテルの車回しを猛スピードで抜けると、モッサンはセフィーロのシフトレバーをセカンドに倒して言った。
「で、それ以上に大事な能力がある。ブレーキや」
吹谷が返事をするよりも前に、モッサンはブレーキを底まで踏んだ。ABSが作動して車体ががたがたと震え、曲がったグレーチングを踏むのと同時に、モッサンはハンドルを大きく右に切った。たった今、廃墟の中を突っ切ってその先の林道を抜け、Uターンした。大きく傾くセフィーロの助手席で吹谷が動きを理解したとき、モッサンはシフトレバーをドライブに戻して、アクセルを踏み込んだ。
「で、もう一個。これ、最後な」
吹谷は視線を前に戻して、その両目を見開いた。廃墟と林道を通らずに交差点を左折してきたバイクが見える。モッサンは続けた。
「衝突安全性能」
突然姿を消したセフィーロが再び目の前に現れたとき、こちらに向かっていることを川端は不思議に思った。さっきまでずっと、後ろ姿が見えていたはずなのに。その車体が、センターラインなど存在しないかのように方向転換したとき、川端は自分がずっと頭の中にイメージしてきたひとつのことを、頭に思い浮かべた。衝突する寸前にバイクを揺すって、水島が相手と衝突することだけを回避する。何度もイメージしすぎて、身体の方が先に動いた。今から、車と正面衝突する。そのことを頭が理解したのは、車体を揺すったことでバイクがバランスを失いかけて、水島の体が予想通り車体から離れたということが、背中の感触で理解できたときだった。成功した。そう頭によぎったとき、ホンダVT250のフロントフォークはセフィーロのグリルに真正面から激突し、フロントガラスの上面に叩きつけられた川端は首の骨を折って即死した。
モッサンはセフィーロのブレーキを再び底まで踏みつけて、火花を散らしながら滑っていくバイクが道路の真ん中で動きを止めたとき、呟いた。
「合格」
吹谷はドアグリップを掴んだまま、額から流れ落ちる汗を受けて、その痛みに目を閉じた。
「え?」
振り返ると、リアウィンドウ越しにライダーの高校生が見えた。首の骨が折れているように見える。吹谷が顔を前に戻したとき、モッサンがその耳を掴んでねじり上げた。
「おい、こら。ボケ―ッとすんな。事故発生です! どないすんねん」
モッサンは、ハンドルから手を離して悠然としている。吹谷は廃墟のホテルを見上げた。
「あ、あの中に」
「そうやな。あれはどないすんの?」
モッサンは運転席側の窓から外を指差した。吹谷は首を伸ばして、モッサンが示す方向を見た。二人乗りしていた女子高校生がガードレール脇に倒れていて、左の手足を擦りむいているが、意識を失っているだけで息はあるように見える。
「あれも、隠します」
「オッケー。ほな、テキパキいけ。おれはバイクを片付ける。お手並み拝見や」
モッサンは運転席から降りると、ひと仕事終えたように大きく伸びをした。吹谷は運転席側に体を伸ばすと、トランクを開けた。助手席から転げ落ちるように出て、意識を失っている女子高校生の体を引きずると、持ち上げてトランクの中へ放り込んだ。車体ががくんと沈むのと同時に、吹谷はトランクを閉めた。モッサンは、地面に倒れている男子高校生の体を引きずると、ガードレール越しに木々の隙間に投げ込んだ。唸るように掛け声を発すると、続けてフロントフォークが折れたVT250の車体を起こし、ガードレールの隙間から林へ放り込んだ。
吹谷は、廃ホテルの車回しにセフィーロを入れると、ボイラー設備が並ぶ従業員用のスペースに頭から突っ込んでエンジンを止めた。一体、何が起きているのか。あまりにも突然すぎて、現実ではないようにすら感じる。モッサンが高校生カップルを轢いて、片方は死んだ。そう頭の中で繰り返している内に、トランクに入っている方の高校生に意識が向いた。背が高く、その顔色はほとんど真っ白に見えた。今は生きているが、車のトランクに閉じ込められていると、いずれは死ぬ。吹谷は車検証の入った冊子を掴んで、運転席から出た。この車が誰かに見つかる前に、証拠を消さなければならない。忘れてはならないのは、漂白剤を撒くことと、ナンバープレートを外すことの二つ。頭の中で繰り返していると、隣に来たモッサンが段取りを弾き飛ばすように口笛を吹いてから、言った。
「ブツブツ、何を言うてんねん」
モッサンは、剥がれ落ちたトタンを引きずってセフィーロに被せてから、吹谷の肩をぽんと叩いた。
「お前、こっから駅まで歩けるか?」
吹谷が弱々しくうなずいたとき、その情けない猫背を見たモッサンは笑った。
「死にそうな顔してんぞお前。しゃあない。ちょっと休憩すっか」