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神のみぞ知る

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 だから、転売ヤーというものをいくら抑えたとしても、そこは、
「寝耳に水」
 ということで、不足するということは、誰の目にも見ても明らかだったといえるのではないだろうか?
 ただ、
「マスク不足」
 というのが、ここまで深刻化すると、
「誰かに責任を負わさなければ、収拾がつかない」
 ということで、
「その責任転嫁を、転売ヤーに求める」
 ということで、ある意味、転売ヤーというのは、その存在意義を、
「恨みを一身に受けてもらう」
 という見せしめとしての役割として、いわゆる、
「必要悪」
 のような存在なのかも知れない。
 さらに、パンデミックの時期になって当初というのは、
「その正体がまったく分からないもの」
 ということもあり、
「とにかく、陽性となれば、すべてを隔離し、触ったもののアルコール消毒。そして、濃厚接触者も検査を行い、陰性であっても、少しの間は、隔離状態にする」
 と言った、今から思えば、信じられないというほどの対策を取っていたものであった。
 もちろん、諸外国に対しては、
「鎖国状態」
 であり、必要以上に過剰な対策を打つしかなかった頃だったのだ。
 世界各国では、
「都市封鎖」
 と呼ばれるものが行われ、市民から権利が失われたという状態であった。
 日本の場合は、
「大日本帝国」
 の時代に存在した、
「戒厳令」
 というものがそれであった。
「災害や有事の際に、その治安を守るという目的で、司令部が置かれ、司令部の全責任において、市民の権利を一定数抑え、治安の悪化を防ぐ対策がほどこされた」
 というものであった。
 かつて、大日本帝国が存在した、
「明治、大正、昭和」
 と呼ばれた時代、それぞれに一度ずつ、戒厳令と呼ばれるものが存在した。
まず最初の明治時代には、日露戦争の講和条約において、勝利国であるにも関わらず、戦争賠償金を取れなかったことに激怒した民衆が起こした、
「日比谷公会堂焼き討ち」
 というのが、最初だったのだ。
 これが、明治期の戒厳令であった。
 さらに、今度は大正時代であった。
 この時代は短かったので、
「大正時代に、戒厳令は存在しないのでは?」
 と思われたが、大正時代の晩成期に起こった事柄というのが、要因の一つである、
「災害」
 だったのだ。
 これは、未曽有の大災害だと十分に言えるものえ、それが、
「関東大震災」
 だったのだ。
 世の中において、災害と有事。どちらも多いのだろうが、
「避けることのできない」
 という意味で、関東大震災は、
「未曽有の大災害だ」
 と言ってもいいだろう。
 帝都や横浜などは、そのほとんどが焼け落ちたり、地震にて崩壊したというものであった。
 それこそ、治安が乱れ、情報が錯綜し、デマがボロボロと出ていたことだろう。
「朝鮮人虐殺事件」
 などというものが起こったのも、関東大震災によっての、デマが原因の悲劇だったといってもいいだろう。
 そして、昭和であるが、こちらは、有事と言えばいいのか、日本陸軍における、
「軍事クーデター」
 ということであった。
 いわゆる、
「二二六事件」
 と言われるものであった。
 しかし、その内情は、
「陸軍内部の権力闘争」
 が、決起に繋がったと言われている通り、そのことが分かっているからなのか、天皇陛下はお怒りになり、
「自らが兵を組織して、鎮圧する」
 とまでいうようになったのだった。
 それが、昭和における戒厳令で、
「大日本帝国最後の戒厳令」
 ということだったのだ。
 ただ、それが、
「大東亜戦争による敗戦」
 ということで、日本は戦勝国である、連合国によって、それまでの、
「立憲君主国」
 から、
「民主主義国家」
 に生まれ変わることになったのだ。
 その大きなターニングポイントが、
「極東国際軍事裁判」
 であり、もう一つが、
「日本国憲法の公布」
 だったのだ。
 日本国憲法というのは、大きく3つの柱があった。
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和憲法」
 ということであった。
 3つ目の平和憲法という観念から、
「有事というものはなくなり、戒厳令というものは、存在しない」
 ということになったのだ。
 しかも、
「基本的人権の尊重」
 というものがあるため、こちらの方が強くのしかかってくるので、戒厳令で言われると事の、
「治安を守る」
 という意味で、今までは、市民の一定の権利を制限することができたのだが、民主国家になると、
「権利の束縛はできない」
 ということになるのだ。
 しかも、有事というのが存在しないということで、他国で行われている、
「都市封鎖:
 と言われる、
「ロックダウン」
 というものはできないのだ。
 他の国では、それらの奇声を破れば、犯罪行為と同じく、懲役や、罰金の対象になるということで、
「治安や生命を守る」
 という意味で、権利の一部の制限は、致し方ないということだろう。
 日本においても、
「治安や命」
 というのは、当然のごとく最優先事項であるということは、当然の理屈なのだが、
「基本的人権」
 というものが、尊重されている以上、都市封鎖であれば、
「命令」
 というものであるはずのものが、日本における、いわゆる、
「緊急事態宣言下」
 では、命令ではなく、
「要請でしかない」
 ということになるのだ。
 それは、実際にどちらが正しいということではないので、賛否両論大きな問題であるが、どちらの意見も、
「国を憂いて」
 ということなので、どちらも無視できないものだといえるのではないだろうか?
 何を優先すべきかということで、
「実際にはバランスが取れていることが大切だ」
 ということになるのではないだろうか?
 そんな時代において、パンデミック初期には、前述のように、
「正体について何も分かっていない」
 ということで、とりあえず取れる対策としての、
「緊急事態宣言」
 という、
「人流抑制政策」
 を取るしかなかったのだ。
 この政策は、街としての機能を、鉄道、電気、水道、ガス、さらには、病院、薬局、コンビニなどの、
「最低限の生活に必要なインフラ」
 という意味のものを止めないようにするというだけで、それ以外は、基本的に止めるというものであった。
 したがって、会社への出社も、学校への通学もないので、朝の通勤ラッシュ時は、ほとんど閑散として電車内であり、街中や地下街などは、ほとんどの店が閉まっているので、それこそ、早朝の始発電車が走り出した時間帯の街の様子が、一日中続いているような感じであった。
 そうなると、都市機能がマヒしてしまい、商売が成り立たない。経済が停滞し、倒産する会社が増え、それによって、
「伝染病による死」
 とは違う意味での、
「死」
 というものが蔓延ってくるという問題が、間近に迫っているのだった。
 ただ、今のまま伝染病が蔓延ってくると、問題になるのは、
「医療崩壊」
 であった。
 一定の医療機関に患者が集中し、さらに、受け入れ病院が賄えないほどに、患者が急激に増えることで、
「受け入れ病院が見つからず、救急車の中で、死を迎える」
作品名:神のみぞ知る 作家名:森本晃次