無限ループ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。
心理思考
「もう女性と付き合うことなんかないのな」
と最近考えるようになった、三津木義治だったが、一人気になる女性ができたことからか、
「また、女性を好きになってみようかな?」
と思うようになった。
元々、
「女性と付き合うことはない」
と思うようになった理由として、
「今までいっぱい騙されてきた」
という意識があったからだ。
「騙されてきた」
というのは、語弊がありそうで、本人もあまりその言葉を使いたくはないと思ってはいるが、まわりが見ても、本人自身も、
「騙された」
ということに関しては、間違ってはいないと思っているので、本人が語弊があると思ったのは、
「そこで騙されたというと、自分も悪いということを認めていることになる」
という理屈から、
「語弊がある」
と、時々であるが、この話になった時、口にするのだった。
まわりの誰も、騙されたということに異論はないのに、なぜ、そんなことを考えるのか、
「ちょっと面倒臭い」
と思われても仕方がないのかも知れない。
というのも、
三津木自身が、
「物事を難しく考えすぎる」
ということになるからなのかも知れない。
物事を難しく考えるというよりも、深読みをしてしまうのだ。
なぜ、そんなことになるのかというと、
「自分の出した答えを信じることができない」
と思うからだった。
「こう思うんだけど、本当にそうなのだろうか?」
と考えてしまう。
すると、先読みをすれば、自分の出した答えに対して、肯定的な考えと、否定的な考えの二つが出てくるはずで、その両方を考えないと、気が済まないのだった。
だが、三津木にとって、どのような次の考えになろうとも、また、そこから先を読もうとするのだ。
これは、
「半永久的」
と言ってもいい。
それでも、一旦、結論を出さないと先に進めない。
「先に進む」
という理由だけで、三津木は、そこで一度考えることをやめて、その時点での考えに、自分の身を任せるという考え方になるのだった。
だから、
「中途半端になってしまった」
と考えていることを考えたとしよう。
しかし、これは、あくまでも、考え方の違うというだけで、
「直感で答えを出そうとも、いろいろ考えて答えを出そうとも、そこに正解というものはないのだから、中途半端という考え方は成立しない」
ということなのであろう。
昔懐かしの、
「金太郎飴」
というものがあったが、
「どこを切っても金太郎」
という言葉が示すように、ずっと続いていくものということなので、本当に、
「どこを切っても、出てくる顔は同じだ」
と言えるのではないだろうか?
だから、本当は深く考えるのも間違ってはいないのだが、人によっては、
「直感とした答えをすぐに見つけられない」
ということを、
「優柔不断だ」
ということで、一刀両断に、その人の性格を、ぶった斬ってしまうという人もいることであろう。
それを考えると、
「最初に出した答えに、正解がないように、ここから先、自分でそれが結論だと思ったこと、それこそが、本当の結論なのではないだろうか?」
ということであった。
「本人が出した結論が、正解だということにしなければ、本当の正解はない」
ということの、逆説ではないかと思えるのだ。
そもそも、こんなことを考えていることも、
「実に面倒臭いということではないか?」
と言えるのではないだろうか?
三津木は、自分のそんな性格を分かっていた。このことを分からせてくれた人がいたことからも、
「女性と付き合うことはない」
と考えたのだろう。
ということは、その分からせてくれた相手というのは、女なのだということになるのであろう。
その女性というのは、今から10年以上前に付き合ったことがある女性であり、その人とは、
「結婚まで行ければいい」
と考えた人だった。
今年50歳になる三津木なので、40歳を少し超えたくらいの年齢というと、
「結構できる最後のチャンス」
というくらいに思っていたのだ。
三津木は、一度結婚を経験している。だからいわゆる、
「バツイチ」
というものだ。
「バツイチ」
など珍しいものではなく、
「却ってバツのない人よりも拍がついている」
というくらいにいわれていた頃だった。
「ある程度の年齢で、結婚したことのないという人は、精神的にか、肉体的にか、何か問題を抱えているのかも知れない」
と思われていたからだ。
今の時代のように、
「結婚できない男性」
というよりも、
「結婚しない男性」
というのが、増えてきたことで、ある程度の年齢になっても、独身だという人に対して、変な目で見ることは減ってはきたが、中には、それでも、疑いの目で見てしまう人がいるだろう。
それは、女性でも男性でも同じであり、何かのこだわりを持ってしまっているのではないかと考えられるのだ。
結婚というのは、昭和の頃であれば、
「結婚適齢期というものがあり、男も女の、その時期になったら、結婚を考えるものだ」
と言われていた。
確かに、三津木も結婚適齢期と呼ばれていた年齢の時には、結婚するものだということを普通に信じていた。
この結婚適齢期というものは、
「思春期」
のように、誰にでも、当たり前のように訪れるものだと思っていた。
つまり、生理的に感じるものであり、
「信じて疑わないものだ」
と感じていたといってもいいだろう。
あくまでも、三津木が感じたこと。その時にまわりが信じていたということで、
「世間一般がそうだ」
というわけではないということを了承いただく中で、
「結婚適齢期というのは、大体、24歳くらいから、30歳くらいまでをいうのではないか?」
ということであった。
結婚適齢期が、
「結婚したいと思う年齢と同一感覚だ」
ということになれば、この年齢幅に間違いはないだろう。
実際に、三津木も同じ頃に、
「結婚したい」
と思う人がいて、
「実際に結婚に向かって、猪突猛進していた感覚だったが、結果は実らなかった」
それも、大きな経験の一つで、自分の中では、
「人生の転機だった」
とも思える時期であった。
心理思考
「もう女性と付き合うことなんかないのな」
と最近考えるようになった、三津木義治だったが、一人気になる女性ができたことからか、
「また、女性を好きになってみようかな?」
と思うようになった。
元々、
「女性と付き合うことはない」
と思うようになった理由として、
「今までいっぱい騙されてきた」
という意識があったからだ。
「騙されてきた」
というのは、語弊がありそうで、本人もあまりその言葉を使いたくはないと思ってはいるが、まわりが見ても、本人自身も、
「騙された」
ということに関しては、間違ってはいないと思っているので、本人が語弊があると思ったのは、
「そこで騙されたというと、自分も悪いということを認めていることになる」
という理屈から、
「語弊がある」
と、時々であるが、この話になった時、口にするのだった。
まわりの誰も、騙されたということに異論はないのに、なぜ、そんなことを考えるのか、
「ちょっと面倒臭い」
と思われても仕方がないのかも知れない。
というのも、
三津木自身が、
「物事を難しく考えすぎる」
ということになるからなのかも知れない。
物事を難しく考えるというよりも、深読みをしてしまうのだ。
なぜ、そんなことになるのかというと、
「自分の出した答えを信じることができない」
と思うからだった。
「こう思うんだけど、本当にそうなのだろうか?」
と考えてしまう。
すると、先読みをすれば、自分の出した答えに対して、肯定的な考えと、否定的な考えの二つが出てくるはずで、その両方を考えないと、気が済まないのだった。
だが、三津木にとって、どのような次の考えになろうとも、また、そこから先を読もうとするのだ。
これは、
「半永久的」
と言ってもいい。
それでも、一旦、結論を出さないと先に進めない。
「先に進む」
という理由だけで、三津木は、そこで一度考えることをやめて、その時点での考えに、自分の身を任せるという考え方になるのだった。
だから、
「中途半端になってしまった」
と考えていることを考えたとしよう。
しかし、これは、あくまでも、考え方の違うというだけで、
「直感で答えを出そうとも、いろいろ考えて答えを出そうとも、そこに正解というものはないのだから、中途半端という考え方は成立しない」
ということなのであろう。
昔懐かしの、
「金太郎飴」
というものがあったが、
「どこを切っても金太郎」
という言葉が示すように、ずっと続いていくものということなので、本当に、
「どこを切っても、出てくる顔は同じだ」
と言えるのではないだろうか?
だから、本当は深く考えるのも間違ってはいないのだが、人によっては、
「直感とした答えをすぐに見つけられない」
ということを、
「優柔不断だ」
ということで、一刀両断に、その人の性格を、ぶった斬ってしまうという人もいることであろう。
それを考えると、
「最初に出した答えに、正解がないように、ここから先、自分でそれが結論だと思ったこと、それこそが、本当の結論なのではないだろうか?」
ということであった。
「本人が出した結論が、正解だということにしなければ、本当の正解はない」
ということの、逆説ではないかと思えるのだ。
そもそも、こんなことを考えていることも、
「実に面倒臭いということではないか?」
と言えるのではないだろうか?
三津木は、自分のそんな性格を分かっていた。このことを分からせてくれた人がいたことからも、
「女性と付き合うことはない」
と考えたのだろう。
ということは、その分からせてくれた相手というのは、女なのだということになるのであろう。
その女性というのは、今から10年以上前に付き合ったことがある女性であり、その人とは、
「結婚まで行ければいい」
と考えた人だった。
今年50歳になる三津木なので、40歳を少し超えたくらいの年齢というと、
「結構できる最後のチャンス」
というくらいに思っていたのだ。
三津木は、一度結婚を経験している。だからいわゆる、
「バツイチ」
というものだ。
「バツイチ」
など珍しいものではなく、
「却ってバツのない人よりも拍がついている」
というくらいにいわれていた頃だった。
「ある程度の年齢で、結婚したことのないという人は、精神的にか、肉体的にか、何か問題を抱えているのかも知れない」
と思われていたからだ。
今の時代のように、
「結婚できない男性」
というよりも、
「結婚しない男性」
というのが、増えてきたことで、ある程度の年齢になっても、独身だという人に対して、変な目で見ることは減ってはきたが、中には、それでも、疑いの目で見てしまう人がいるだろう。
それは、女性でも男性でも同じであり、何かのこだわりを持ってしまっているのではないかと考えられるのだ。
結婚というのは、昭和の頃であれば、
「結婚適齢期というものがあり、男も女の、その時期になったら、結婚を考えるものだ」
と言われていた。
確かに、三津木も結婚適齢期と呼ばれていた年齢の時には、結婚するものだということを普通に信じていた。
この結婚適齢期というものは、
「思春期」
のように、誰にでも、当たり前のように訪れるものだと思っていた。
つまり、生理的に感じるものであり、
「信じて疑わないものだ」
と感じていたといってもいいだろう。
あくまでも、三津木が感じたこと。その時にまわりが信じていたということで、
「世間一般がそうだ」
というわけではないということを了承いただく中で、
「結婚適齢期というのは、大体、24歳くらいから、30歳くらいまでをいうのではないか?」
ということであった。
結婚適齢期が、
「結婚したいと思う年齢と同一感覚だ」
ということになれば、この年齢幅に間違いはないだろう。
実際に、三津木も同じ頃に、
「結婚したい」
と思う人がいて、
「実際に結婚に向かって、猪突猛進していた感覚だったが、結果は実らなかった」
それも、大きな経験の一つで、自分の中では、
「人生の転機だった」
とも思える時期であった。