遅れてきたオンナ
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年3月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。今回は少し、かつてのドラマや特撮などに似たような話があり、それをディスったような形になっていますが、あくまでも、時代が違ってきたということと、いろいろな意見があるということで、寛大な目で、ご覧ください。あくまでも、フィクションです。
外交員の女
五分という時間を過ごしていると、長いと思う時と、短いと思う時がある。しかし、この時間を感じた時、最後には、
「ちょうどいい」
と感じるのは、何かの気のせいであろうか。
五分経ってから、五分前を思い出す時と、五分前から、五分後というのを思った時とでは、
「どうも、ちょうどいいくらいに感じる」
ということが分かるくらいであった。
つまり、そこから少しでも長かったり短かったりすると、起点から先を見た時、先から、起点を見た時、それぞれに、微妙な違いが感じられるというものであった。
それも、1分の違いからであれば、気のせいと思えるほど一瞬のはずなのに、実際に感じると、微妙どころではなく感じるのは、
「前を見た時と、後ろを振り返った時の違いなのに違いない」
といってもいいだろう。
それは、
「人間というのが、前を向いて歩いているのが基本であり、逆に、後ろを振り向いた時に、首筋が攣ったような感覚になることで、視線の遠近感が取れなくなり、微妙な立体感が、おかしくなるからではないだろうか?」
と感じるのであった。
それは、時間というものにも言えることである。
いや、時間というものが、規則的なリズムでコントロールされているだけに、余計に感じることだった。
規則的な流れは、自動で動いている感覚といってもいいだろう。
それを思うと、後ろを振り向いた感覚は、
「それまで進んできた道を、自分で違う感覚に歪めようとする、見えない力のような気がして、前を向いているのは、まだ未踏の場所だということが分かっているから、余計にハッキリと見えるように、コントロールされているのかも知れない」
そんなことを感じていると、ふと思い出す言葉が、
「百里の道を行くのに、九十九里を持って半ばとす」
という言葉である。
そういえば、昔、
「西遊記」
のドラマで、天竺までの道のほとんどを来たと思っていたので、
「目の前に広がった天竺の街を、まったくの疑いを持たずにやってきた」
というシーンがあった
そこは、引き連れている、師匠である三蔵法師ですら、分からなかったくらいで、この世界は、お釈迦様が作りあげた、
「幻影の世界」
だったのだ。
本来であれば、
「だいぶ来たことで浮かれたメンバーを気を引き締める」
というのもあっただろうが、問題は、
「どれだけの距離があるかもわからないのに、どれだけの距離を来たということなど分かるわけもない」
ということだ。
「分かっているつもりになっていることが油断を生む」
という戒めのようなものだった。
この話は、
「距離」
というものを見据えた話であったが、
「時間」
あるいは、
「時系列」
というものの話だって、あってもいいのではないだろうか?
この小説はそういう時間というものを考えるお話であり、その時間というのが、前述のように、
「前を見た時、後ろを振り返った時に、ちょうど同じに感じられる」
という、
「五分間」
という時間が、テーマになったお話なのです。
そのことを考えてもらえればいいと思うのだが、いかがだろうか?
この5分という時間の幅を、いかに考えるかということを、ちょうど、一人(?)のオンナと、それにまつわる、幾人かの男のお話だと思っていただければ、幸いなことであった。
五分という時間が、本当にどういう時間なのかということと、ここで出てくる男が、一体何人いて、この物語に影響してくるか、そして、
「果たしてオンナの正体と、人数が幾人なのか?」
ということも関わってくる。
果たして、時間や、時系列を使った物語というものが、いかに、シュールなものなのかということも含めて、考えていこうと思っているわけである。
登場する男も様々で、その男たちが、一体、どういう流れになっているのか、そのことも理解できるかどうか、難しいところである。
まずは、時間というものが、どういうものなのか?
人によって、その捉え方も微妙に違っているというところが、難しいところではないだろうか?
ここに一人のオンナがいるのだが、雰囲気は、
「オンナ」
というよりも、
「女の子」
という雰囲気がたっぷりだった。
年齢はいくつか分からないが、見た目は、20歳前後に見えるが、角度によって、女子中学生くらいに見えるところがあり、その角度を知ることが、彼女にとっての、友達としての、バロメータというところであった。
彼女は、名前を、
「篠山さくら」
と言った。
短大を卒業して、最近、保険会社のセールスとして就職した。
正直、そのあどけなさから、
「保険の外交員は、似合わない」
と思われるほどで、まるで、箱入り娘の雰囲気に、独り立ちして最初は、保険の入会者が、結構いるのだった。
彼女も、それが、自分の実力ではなく、
「新人という新鮮さと、自分でいうのも何だが、かわいらしさではないか」
と思っていたのだったが、それでも、さすがに、人から好かれるということはいいことだと割り切り、しかも、自分の成績も上がるのだから、まさに、
「願ったり叶ったり」
だったのだ。
ただ、それでも、彼女と面と向かった人が、それぞれに、まったく違った印象を持っていることを、最初は誰も知らなかったが、
「彼女が、どこか二重人格ではないか?」
と思われていたのも事実だが、まさか彼女の人当たりが、そのすべてで違うということは誰も気づかなかった。
というのも、
「こんな百面相のようなことを知っている人は、普通いるはずもない」
ということであった。
昔聴いた、逸話の中で、
「聖徳太子という人物は、一度に十人の話を聴くことができる」
というのがあった。
それは、あくまでも逸話であり、
「そんなことができるわけはない」
と言えるのだろうが、そこまでのことができても、いいくらいの人物だったということであろう。
外交員の女
五分という時間を過ごしていると、長いと思う時と、短いと思う時がある。しかし、この時間を感じた時、最後には、
「ちょうどいい」
と感じるのは、何かの気のせいであろうか。
五分経ってから、五分前を思い出す時と、五分前から、五分後というのを思った時とでは、
「どうも、ちょうどいいくらいに感じる」
ということが分かるくらいであった。
つまり、そこから少しでも長かったり短かったりすると、起点から先を見た時、先から、起点を見た時、それぞれに、微妙な違いが感じられるというものであった。
それも、1分の違いからであれば、気のせいと思えるほど一瞬のはずなのに、実際に感じると、微妙どころではなく感じるのは、
「前を見た時と、後ろを振り返った時の違いなのに違いない」
といってもいいだろう。
それは、
「人間というのが、前を向いて歩いているのが基本であり、逆に、後ろを振り向いた時に、首筋が攣ったような感覚になることで、視線の遠近感が取れなくなり、微妙な立体感が、おかしくなるからではないだろうか?」
と感じるのであった。
それは、時間というものにも言えることである。
いや、時間というものが、規則的なリズムでコントロールされているだけに、余計に感じることだった。
規則的な流れは、自動で動いている感覚といってもいいだろう。
それを思うと、後ろを振り向いた感覚は、
「それまで進んできた道を、自分で違う感覚に歪めようとする、見えない力のような気がして、前を向いているのは、まだ未踏の場所だということが分かっているから、余計にハッキリと見えるように、コントロールされているのかも知れない」
そんなことを感じていると、ふと思い出す言葉が、
「百里の道を行くのに、九十九里を持って半ばとす」
という言葉である。
そういえば、昔、
「西遊記」
のドラマで、天竺までの道のほとんどを来たと思っていたので、
「目の前に広がった天竺の街を、まったくの疑いを持たずにやってきた」
というシーンがあった
そこは、引き連れている、師匠である三蔵法師ですら、分からなかったくらいで、この世界は、お釈迦様が作りあげた、
「幻影の世界」
だったのだ。
本来であれば、
「だいぶ来たことで浮かれたメンバーを気を引き締める」
というのもあっただろうが、問題は、
「どれだけの距離があるかもわからないのに、どれだけの距離を来たということなど分かるわけもない」
ということだ。
「分かっているつもりになっていることが油断を生む」
という戒めのようなものだった。
この話は、
「距離」
というものを見据えた話であったが、
「時間」
あるいは、
「時系列」
というものの話だって、あってもいいのではないだろうか?
この小説はそういう時間というものを考えるお話であり、その時間というのが、前述のように、
「前を見た時、後ろを振り返った時に、ちょうど同じに感じられる」
という、
「五分間」
という時間が、テーマになったお話なのです。
そのことを考えてもらえればいいと思うのだが、いかがだろうか?
この5分という時間の幅を、いかに考えるかということを、ちょうど、一人(?)のオンナと、それにまつわる、幾人かの男のお話だと思っていただければ、幸いなことであった。
五分という時間が、本当にどういう時間なのかということと、ここで出てくる男が、一体何人いて、この物語に影響してくるか、そして、
「果たしてオンナの正体と、人数が幾人なのか?」
ということも関わってくる。
果たして、時間や、時系列を使った物語というものが、いかに、シュールなものなのかということも含めて、考えていこうと思っているわけである。
登場する男も様々で、その男たちが、一体、どういう流れになっているのか、そのことも理解できるかどうか、難しいところである。
まずは、時間というものが、どういうものなのか?
人によって、その捉え方も微妙に違っているというところが、難しいところではないだろうか?
ここに一人のオンナがいるのだが、雰囲気は、
「オンナ」
というよりも、
「女の子」
という雰囲気がたっぷりだった。
年齢はいくつか分からないが、見た目は、20歳前後に見えるが、角度によって、女子中学生くらいに見えるところがあり、その角度を知ることが、彼女にとっての、友達としての、バロメータというところであった。
彼女は、名前を、
「篠山さくら」
と言った。
短大を卒業して、最近、保険会社のセールスとして就職した。
正直、そのあどけなさから、
「保険の外交員は、似合わない」
と思われるほどで、まるで、箱入り娘の雰囲気に、独り立ちして最初は、保険の入会者が、結構いるのだった。
彼女も、それが、自分の実力ではなく、
「新人という新鮮さと、自分でいうのも何だが、かわいらしさではないか」
と思っていたのだったが、それでも、さすがに、人から好かれるということはいいことだと割り切り、しかも、自分の成績も上がるのだから、まさに、
「願ったり叶ったり」
だったのだ。
ただ、それでも、彼女と面と向かった人が、それぞれに、まったく違った印象を持っていることを、最初は誰も知らなかったが、
「彼女が、どこか二重人格ではないか?」
と思われていたのも事実だが、まさか彼女の人当たりが、そのすべてで違うということは誰も気づかなかった。
というのも、
「こんな百面相のようなことを知っている人は、普通いるはずもない」
ということであった。
昔聴いた、逸話の中で、
「聖徳太子という人物は、一度に十人の話を聴くことができる」
というのがあった。
それは、あくまでも逸話であり、
「そんなことができるわけはない」
と言えるのだろうが、そこまでのことができても、いいくらいの人物だったということであろう。