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さよなら、カノン【小説版】

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リビングは薄暗く、ダイニングも照明が点いていない。
キッチンの小窓から入る冬の外光が、ダイニングキッチンをぼんやりと浮き立たせる。
ダイニングテーブルの上には安価なワインとグラス。
実穂子は疲れきった表情で、グラスに残ったワイン飲み干した。
キッチンの流し台に、皿や鍋が洗わずに放置されている。
実穂子は、リビングの壁に掛けられたままの浅葉小学校の制服を見つめた。
制服にかけられた埃よけのビニール袋も、心なしかくすんで見えた。
テーブルを照らす外光がさらの弱まり、薄暗さが増す。
キッチンの小窓に白い粒が貼りついた。
どんよりした曇り空から、冬の便りが風に運ばれてきた。


正樹が務める制作会社は都内の雑居ビルの3階にあった。
日付が変わってもなお、正樹はノートPCに向かって編集作業に打ちんだ。
別件で事務所に立ち寄った宮田が、心配げに正樹の様子を窺った。
「チーフ、きょうも泊まりですか」
「これ、今日中に修正しておかないと、あとあと面倒なので」
正樹は視線だけを宮田のほうに向けて、そう言った。
「最近、家に帰ってないんじゃないですか」
「そうかな・・・?」
「そうですよ。奥さん・・・」
「家にいても、なんか落ち着かなくて」
「奥さん、ひとりで不安でしょうに」
正樹は、一度出かけた言葉を呑みこんで答えた。
「でも、これ、僕が社長に提案したプロジェクトだから」
正樹は家庭の話題を遮って、再びノートPC画面に表示されるパワーポイントを見ながら作業を続けた。
宮田はショルダーバッグを肩に掛け直し、溜息をついた。


以前に駅前でチラシ配りをした警察OBの4人が再び終結した。
場所はスーパーキナリヤのエントランス。
福住の呼びかけだった。
数週間前に福住が吉川宅を訪ねたとき、晴天だというのに雨戸が閉め切られていた。
窓から漏れる照明もなく、玄関のインターホンを鳴らしても反応がなく、留守をしているのかと、諦めて帰りかけた。
が、そのとき玄関ドアが開いて実穂子が出てきた。
化粧もせず、やつれた様子の実穂子を見て、福住は不憫に感じた。
春頃から吉川宅に無言電話がかかってきたり、郵便受けに無地の封筒が届いたりしていた。
実穂子は、初めはカノンに関わる誘拐犯からの接触の可能性もと疑ったが、警察から匿名の嫌がらせだと聞かされ落ちこんだ。
それ以来、固定電話は切断し、福住からのホットラインについても出たり出なかったり。
心配した福住は、自宅にこもりがちの実穂子に少しでも心の元気を取り戻してもらいたく、大人数でのチラシ配りを計画した。
カノンの捜索が行き詰まっていることもあったが、実穂子に前を向いてほしかった。
周囲の心ない声に傷つき、自責の念を深くしていることは痛いほどわかった。
それでも周囲の雑音に惑わされず、実母には我が子の生存を心から信じていてもらいたい。
カノンが生きていて何らかのサインを母親に向け発しているなら、そのサインを受け取る感度を高く保っていてもらいたい。
だから今は落ちこんでいる場合じゃない。
同じ幼い子どもを持つ母親として、福住は電話でそう実穂子を諭して、実穂子を現場に連れだした。
年を重ねてもなお健翁な警察OBたちと言葉を交わすうち、実穂子のささくれ立っていた心が幾分和らいだ。
実穂子はキナリヤのエントランスの、人通りの邪魔にならない場所に段ボール箱を置いた。
段ボール箱の積み下ろしを手伝っていた福住は、実穂子の骨ばった細い腕を見て思わず口走った。
「実穂子さん、食べてる?」
実穂子は生返事を返した。
「食べなきゃだめよ」
実穂子はたくしあげた長袖を手首まで伸ばし、笑顔で答えた。
「うん、食べてます。食べても太らない質なの」
警察OBのひとりが箱からティッシュを鷲掴みした。
ティッシュ配りにはスーパーキナリヤの社員も参加した。
実穂子は初めのうち少しティッシュ配布に参加したが、あとは眺める側に回った。
エントランス付近での人海戦術は、ある意味功を奏した。
二重三重に配置された人員から次々と繰りだされるティッシュを、買い物に来た客が受け取らないわけにいかない状況を作った。
段ボール2箱分のポケットティッシュは順調に捌け、配布は一時間余りで終わった。
実穂子はキナリヤ社員に礼を言い、警察OBらを労った。
空になった段ボール箱を片づけていると、福住が実穂子に近寄ってきて言った。
「実穂子さん、少し話があるの」


気の進む話ではなかった。
顔と名前を晒して広く世間に呼びかける。
実穂子はカノン失踪後、一度も顔貌を公にしていなかった。
自身の顔つきにコンプレックスを持っていたからだ。
実穂子の切れ長のやや吊り上がった目がきつそうな性格に映ると、学生時代、友人たちに何度か話題にされた。
友人たちに悪気がないことは承知していたが、密かに悩んだことがあった。
目が笑ってないと揶揄されたこともあり、それ以来、写真を撮られることは極力拒否した。
自撮りさえも避けるようになっていた。
目元のキツさが抑えられるようメイクの上達に努力した実穂子であったが、全体の印象が変わるまでには至らなかった。
そのような容姿がカメラに撮られ、関東圏のテレビに放映されて、数多くの視聴者の目に入れば、見た目だけで判断する輩が一定数出てくることは想像に難くない。
ただでさえ公表していない住所や電話番号が特定され、封書が送りつけられたり、無言電話がかかってくる状況である。
有用な情報が得られる好機かも知れないが、かえって状況の悪化を招く恐れもある。
「できたらやりたくない」
実穂子は正樹に相談した。
正樹は実穂子の心配事を理解した。
理解した上で正樹は言った。
「カノンのためだ」
顔と名前を公開して呼びかけることで、母親が行方不明の我が子を見つけたいという気持ちが、真剣みをもって世間にとらえられる。
福住の考えに正樹も賛同していた。
「撮ったものは事前に見せてもらえるし、そこで変更することもできる」
「大丈夫。警察も盾になってくれるし、何か変なことが起きても僕が必ず実穂子を守る」
正樹と話し合ううちに、実穂子の心は傾いた。
そして退路は絶たれた。
カノンを見つけられるなら何でもする。
「やりたくない」はただのわがまま・・・。
柿の木の若葉が初夏の陽光を跳ね返す午後、吉川宅の前庭に、テレビ局のスタッフが参集した。
スタッフたちは撮影用の機材を、手際よくリビングに運び入れた。
機敏に働く撮影スタッフたちが録音機器、照明、カメラ等を手慣れた手つきで設営した。
「言葉に詰まってもいい。何度でも取り直しはきくから」
正樹は硬い表情に実穂子の緊張が和らぐよう言葉をかけた。
実穂子は覚悟を決めて、カメラの前に立った。


収録は滞りなく終わり、翌週の放映日に向けて編集作業がなされた。
編集されたビデオのチェックを、実穂子は正樹に委ねた。
番組制作のプロである正樹がOKを出せば、それに逆らう理由はない。
何より正樹も当事者で、カノンを見つけたい気持ちは同じである。
陰鬱な時が過ぎ、番組放映の当日が巡ってきた。
正樹と実穂子は、テレビ放映を自宅で迎えることを選択した。