さよなら、カノン【小説版】
ぎこちない微笑みを実穂子と交わし、正樹は門扉を出てハイエースに乗りこんだ。
ハイエースの屋根が垣根の向こうに消えていくのを、実穂子はひとり見送った。
家の戸締りはひと通り済んでいた。
あとは開けっ放しの玄関ドアを閉めるだけ。
実穂子はドアノブに指をかけ、閉める寸前にあらためてリビングルームを見つめた。
リビングの壁面フックにカノンが着るはずだった浅葉小学校の制服が掛かっている。
その下のチェストの上には真新しいランドセルが置いてある。
もう何か月もそのままになっている。
いつか壁から降ろす日が来るのだろうか。
実穂子は玄関ドアを閉め、鍵をかけた。
住民の親睦会などに利用される浅葉地区の公民館の前にサーブが停まっていた。
実穂子は公民館を管理する町内会の役員のひとりにカノン捜索の協力を依頼した。
チラシを数十枚手渡し、掲示板への貼り紙の許可を願い出た。
初老の町内会役員は実穂子に同情し、快く許可を与えた。
公民館の表に立つみすぼらしい掲示板であったが、できることは全部やるという一心で実穂子は”探しています”のチラシを掲示板に貼った。
初夏の優しい陽ざしが、実穂子の背中に照りかえる。
湿気の少ない季節にもかかわらず、実穂子の額には汗が滲んだ。
額の汗を拭いながら実穂子は町内会役員に頭を下げ、公民館を後にした。
サーブが次に停まったのは路線バスが発着する駅前のロータリーだった。
空いているコインパーキングにサーブを停めると、実穂子の到着に気づいて福住がやってきた。
実穂子は福住に短く礼を述べた。
トランクから段ボール箱をキャリーに移し変えながら、福住は
「ボランティアの方々が駅のほうにいます」
と言った。
キャリーを引いて駅に向かう。
乗降客の少ない時間帯であったため、駅のそばで談笑する4人ほどのグループがすぐに目に留まった。
「あの方たちがお手伝いします」
ボランティアと称する人たちはいずれも年配の男性だった。
顔に刻まれた深いしわや白髪交じりの毛量の少ない頭髪は、見るからにリタイアした老兵であるが、いずれの男性も背筋はピンと伸びていた。
福住は
「この方たち、皆警察のOBさん」
ボランティアのひとりが実穂子に
「きょうはよろしく」と微笑みかけた。
警察OBと聞いて、実穂子は途端に緊張で身体が強張った。
「大丈夫。こういうことには慣れている方たちばかりだから」
実穂子が指示する間もなく、警察OBの男性たちは箱からチラシを取りだし、四方に散った。
ボランティアに助けられて駅前でのチラシ配布は小一時間で終わった。
実穂子は警察OBの4人と福住に礼を言った。
「またいつでも言ってください」
と言い残し、彼らは福住と語らいながら駅前から撤収した。
夕暮れの太陽がまるでひと仕事終えたかのように緩やかに山の端に腰をおろす。
オレンジ色の夕陽は収穫を控えた水田の稲穂の波をも鮮やかな黄金色に染める。
藤原や足高警察署の署員たちの懸命の捜索にも関わらず、カノン発見には至らず、1年が経過しようとしていた。
その間、新聞やテレビなどのメディアで幾度となく報じられたが、思ったような反響はなかった。
日本国内というスケールでいえば、毎日数十件の行方不明案件が各地で発生している。
如何ばかりの人が発見に至っているであろうか。
行方不明案件の数以上に、日本では刑法犯罪が発生している。
警察は犯罪の捜査や取り締まりに忙殺され、事件とも事故とも判然としない行方不明案件が隅に追いやられるのは仕方のないことである。
ブラインドの隙間に指をかけ、藤原は西の空に沈む夕映えの景色を眺めた。
太陽が稜線に沈みきる寸前に、藤原は不意にブラインドを窓の上端に引きあげた。
残照の眩いオレンジ色の光線が足高署会議室の一瞬広がった。
「眩しい」
青木が手のひらで夕陽の直射を遮った。
その場にいた福住は目を細め、芹沢は顔を背けた。
失踪から1年、カノンの捜索にあたるメンバーは藤原と青木、福住と芹沢の4人に縮小されていた。
陽が落ち、西の空がグラデーションに移り変わる景色を離れて、藤原はホワイトボードの前に立った。
「皆、他の業務もあるだろうから、正味の話で進める。この一か月で集まった情報と分析結果について報告してもらいたい」
青木がおもむろに口火を切る。
「この一か月間に4件の通報がありました。その4件すべて場当たりしましたが、いずでもガセでした」
次に福住が立ちあがった。
「事件当夜駐車場にいた車両について所有者の報告を前回いたしました。ナンバープレートが不鮮明だった10件の車について、芹沢さんの協力を得て今回すべて判明しました。その運転者宅を全部訪問しましたが、車の検分も含めておかしな点は認められませんでした」
「あのキリンを積んだ軽トラックも?」
青木が尋ねた。
藤原は捜査資料にある軽トラックのページをめくった。
福住は、藤原が資料を見つけるのを待って答えた。
「はい、あれは隣県の住宅展示場に納品予定だったそうで、納品されたことも確認しています」
「そうか・・・。福住、つまり不審車両は一台もなかったという・・・」
「はい」
福住は小さく頷いた。
「他には?」
藤原の問いに誰も口を開く者はなかった。
「両親の周辺をもう一度探るか」
手詰りな状況に苛立った藤原は独りごち、ホワイトボードを叩いた。
カノンが行方不明になって2度目に師走が巡ってきた。
どんよりとした肌寒い午後、実穂子の姿はポスーパーキナリヤのエントランスにあった。
この場所で自分はカノンを見失った。
カノンが行方不明のなった原点の場所で、実穂子は行き交う買い物客にケットティッシュの詰まったトートバッグを肩から提げて、スーパーキナリヤのエントランスに立った。
エントランス周辺はクリスマスカラーの飾りつけが施され、陽気な華やかさが演出されていた。
年末年始の恒例行事に向けて物品を調達するのに忙しい買い物客に対して、情報提供のチラシを受け取ってもらうのは容易なことではなかった。
ペラペラのチラシではまず受け取ってもらえない。
冬場の風で散逸することも考慮して、実穂子はチラシを折り畳んでポケットティッシュに入れ、配ることにした。
幼い子どもを連れた家族連れの買い物客を見るのは実穂子にとって辛いことであったが、それでも実穂子はカノンのためと思い、買い物客の目の前にポケットティッシュを差しだした。
そのポケットティッシュのほとんど受け取られることなく、多くの者は無視したり避けて通り過ぎるだけだった。
興味を示したりタイミングが合って手渡しできた者に対しては、実穂子は深く頭を下げた。
受け取ったポケットティッシュをそのままポケットやバッグにしまう者が多くいる中、挟まれたチラシを抜き取ってゴミ箱に投げ入れる者もいた。
ゴミ箱に入りきらず、床面で風に煽られるチラシもあった。
実穂子は、溜息まじりに駐車場で風に舞うチラシを拾い集めた。
エントランス脇には、ポケットティッシュが大量に詰まった段ボール箱が二箱積まれていた。
柿の木の枝に最後までしがみついていた枯葉が寒風に飛ばされ、吉川宅の前庭の敷石に舞い落ちた。
すきま風が入らぬように縁側は雨戸がしっかり閉じられていた。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん