さよなら、カノン【小説版】
正樹は虚ろにシロの頭を撫でた。
実穂子はテーブルに置いたスマートフォンを気にしながら、ニュースを見守った。
失踪から一週間が経過し、捜索範囲は日本全土に拡大された。
北海道から沖縄に至るすべての警察署にカノンの捜索依頼が頒布された。
と同時に全国ネットの放送局がそれぞれのニュース枠でカノンの失踪を報じた。
NHKニュースが終わった。
正樹はシロを膝に乗せて、それから溜息をついた。
実穂子はテーブルのパスタ皿を手にとって正樹に言った。
「もう食べない?」
「ああ」
正樹はそっけない返事を返した。
実穂子は二人分の皿を手にとり、多量に残ったパスタをゴミ箱に捨てた。
汚れた皿をシンクに放りこみ、実穂子は深い溜息をついた。
イチョウの葉が浅葉小学校の校庭を舞う。
体育館とほぼ同じ高さのイチョウの樹は、晩秋の風に吹かれ枝に残る葉はわずかとなっている。
祝日の昼下がり、実穂子と正樹の姿は浅葉小学校の体育館にあった。
来春、小学校に入学する新入生に対して事前の保護者説明会が催されていた。
足高町浅葉地区でも過疎化、高齢化が深刻で、子どもの数が減少している。
それに伴って小学校の統廃合を余儀なくされ、年を追うごとに遠距離から通う子どもたちが増え始めた。
その対策として、細かく地域を巡回するスクールバスを導入して通学時の不安を軽減するというのが説明会の趣旨であった。
説明会が終わると、パイプ椅子が隅に寄せられ、小ざっぱりした身なりの業者がフロアの壁面を使ってブースを作った。
サイズや色、素材が記された大判紙が壁面に貼られ、長テーブルの横に浅葉小学校の制服を着たマネキンが数体並べられた。
保護者たちは業者と談笑しながら真新しい制服の説明を受け購入した。
我が子の新たな門出に笑みをこぼす保護者たちの様子を、実穂子たちは体育館の片隅から眺めていた。
カノンが小学校に進級する姿を想像はしても、実穂子たちをして喜びの感情に到達することはなかった。
おおかたの保護者らが体育館を去った頃に、実穂子と正樹は制服業者から短い説明を受け、
制服の収まった紙袋を受け取った。
体育館の入口で最後の来場者となった実穂子と正樹を、浅葉小学校の女性校長が硬い笑顔で待ち受けていた。
軽く会釈する実穂子らに校長が声をかけた。
「お辛いですね。でも来年の入学式には、必ず・・・」
言葉を継げず、校長は作り笑顔を崩した。
正樹は校長の目を見つめ、「必ず、」と返した。
実穂子は背中に視線を感じ、体育館を振り返った。
制服業者たちが実穂子たちのほうを向いて直立していた。
そして皆、目を伏せるように頭を垂れた。
塀に囲まれた小さな庭の枯れた芝生の上にビニールのボールが転がった。
尻尾を振って、そのボールを白毛のシロが咥えた。
生後1年を過ぎて成犬に近づきつつあるシロは、縁側に腰掛ける正樹にボールを届けた。
正樹は受け取ったボールを庭に向かって投げる。
そのボールをシロが追いかける。
「いいのか?」
正樹はキッチンに立つ実穂子に問いかけた。
「うん。色々考えたけど。パパはどうなの」
「俺は家にいないから・・・。だけどカノンが帰ってきたら寂しがるぞ」
実穂子はエプロンの裾で手を拭きながら、キッチンから正樹のいる縁側に移動した。
「この子も大きくなっちゃし。カノンわかんないかもしれない」
「んなことあるか。まだまだ可愛いシロ坊だよな」
正樹はシロから再びボールを受け取り、シロの頭を撫でた。
シロはワンと吠えた。
「じゃ、山形の変わり者の伯父さんとこに引き取ってもらう。でいいんだな」
「変わり者だけは余計だけど」
シロは正樹が投げたボールを繰り返し縁側に運んだ。
実穂子が正樹の隣に座り、ボールを渡すようシロに催促した。
実穂子はシロの口元からボールを受け取り、そのままシロの首元に抱きついた。
「ごめんね、シロ。いろいろ無理なの。いいママじゃなくてごめんね」
シロはつぶらな瞳で実穂子を見あげた。
曇天の空から白い粉雪が舞い落ちてきた。
薄紅色の蕾をつけた桜の枝が、早春の陽を浴びて足高警察署会議室の窓の外に広がっている。
カノンが失踪してから7か月が経過したある日の午後。会議室には藤原の他、青木、福住、芹沢の4人が顔を揃えた。
事故と事件の両面で捜査は続けられていたが、カノンの発見はおろか、彼女に繋がる手がかりにすら辿りついていない状況は、上層部の知るところとなった。
事件性に疑問符が打たれ、上層部は藤原を長とする捜査本部に対し体制の縮小を打診した。
藤原は抗った。
カノンの失踪に何者かが関与している“事件”であることを主張したが、その“事件”を裏づける証拠が見つかっていない。
藤原の焦りは増すばかりであった。
「河川での大がかりな捜索はいったん終了した。結果は知っての通りだ」
ホワイトボードに記された4つの項目のうち、”身代金誘拐”と”交通事故”がバツ印で消されていた。
そこに藤原は新たに”転落水難事故”の文字の上にバツ印をつけた。「
「ご遺体が発見されてないといことは、まだカノンちゃんが生きている可能性があるということだ」
藤原たちは”連れ去り”の文字が残ったホワイトボードを見つめた。
「誰が、なんのために・・・」
福住が呟いた。
遊ぶ者が居なくなった遊具は廃れるのが早い。
正樹がDIYでこしらえたブランコは冬の嵐の日にロープが片方千切れた。
カノンがいればすぐにでも修理するのだが、修理する気力も理由も正樹は持ち合わせていなかった。
セーラームーン仕様の三輪車は薄汚れてきた物置小屋で横倒しのまま。
カノンが好きだったキリンの頭部がデザインされたホッピングも物置の片隅に置き去りにされている。
本来きちんと整頓されていた物置小屋だが、今や遊具や工具が入り乱れ散らかり放題になっていた。
実穂子が正樹に一度、物置小屋の整理を頼んだことがある。
しかし正樹が手をつけることはなかった。
遊具のひとつひとつを見るにつけ、カノンのことが思い出されて辛くなる。
実穂子もそのことを承知していたので、それ以上頼むことはなかった。
両手で抱えた段ボール箱を、実穂子はサーブのトランクに積み入れた。
段ボール箱の中身は印刷所から送られてきた“探しています”の大量のチラシである。
「やっぱり慣れないな」
と独り言を言い、正樹はネクタイの結び目を整えながら玄関から出てきた。
駐車ロットの実穂子を見つけて
「それで、福住さん何て?」
「地元のボランティアさんが配るのを手伝ってくださるって。助かるわ」
実穂子はサーブのトランクを閉めた。
「それはよかった」
「一緒に駅まで乗っていけばいいのに」
「いや、さっきメールがあった。もう着くって」
正樹がそう答えるのと前後して、背の高いハイエースが停車するのが垣根越しに見えた。
「半年ぶりの出社だ。これ以上会社に迷惑はかけられない」
正樹は書類の詰まったショルダーバッグを肩にかけ直した。
垣根の外を、幼い子どもたちの甲高いはしゃぎ声が弾むように通り過ぎた。
その声に実穂子は一瞬心を鷲掴みされた。
正樹は実穂子の表情が曇るのを見てとった。
「ごめんな。実穂子ばかりに負担かけて」
「私は大丈夫。しっかり稼いできて」
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん