さよなら、カノン【小説版】
福住は紺色のポロシャツに作業ズボンという軽装であった。
「ああ。それであのスーパー周辺で何か出たか」
「いいえ、何も。すみません」
「そうか・・・。こっちも・・・見ての通りだ」
福住は吉川宅に漂う重苦しい空気に圧倒された。
藤原は、福住が持ち場を引き継ぐことを正樹と実穂子に告げ、吉川宅を後にした。
三日が経過した。
子どもを攫ったと名乗る者からの電話や投書はなく、警察は録音機器の一部を残して吉川宅から撤収した。
身代金誘拐の可能性が限りなく低いと、藤原たちは判断を下した。
一方、カノンの捜索範囲はさらに拡大され、川の下流域や山林の奥部にまで及んだ。
警察犬の投入も空しく、時間だけが無為に費やされた。
失踪から4日目の朝、正樹と実穂子と合意の下、要望に従って関東地区のメディアに限定した公開捜査に踏み切った。
地方紙の社会面と関東圏のみに放送されるローカルテレビ局のニュース枠を使って、カノンの失踪が報じられる運びとなった。
同時に情報提供も呼びかけられた。
足高警察署は電話機を増やして一般市民からの情報提供に期待を寄せた。
正樹は無精ひげもそのままに、リビングのテレビをニュース番組に合わせた。
長い髪をヘアゴムで止めただけの実穂子は、キッチンからテレビを注視した。
局のアナウンサーの口からカノンの名前が読まれ、防犯カメラ映像が映しだされた。
実穂子は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。
両手で幼稚園帽子を握りしめ、目撃情報が寄せられることを祈った。
カノンに関するニュースは1分程度の短いものだった。
ニュース終了直後の足高警察署に数件の電話があったが、カノン失踪に繋がるものは一件もなかった。
足高警察署の会議室にカノン捜索に関わった者が集められた。
福住以下制服警官と鑑識の芹沢、青木ら私服組数人らが狭い部屋にひしめき合った。
使い古されたホワイトボードには、防犯カメラ映像から切りだされたカノンの画像写真が貼りだされた。
写真の下には、正樹、実穂子、カノンの姓名と関係性。
藤原は写真の横に”身代金誘拐””交通事故””転落水難事故””連れ去り”と、4つの想定される可能性を書き記し、ブリーフィングを始めた。
「駐車場で行方がわからなくなってきょうで1週間が経過した。新聞とテレビにも情報を流した。しかし有力な手掛かりが何ひとつない状況だ」
藤原は手元の捜査資料に視線を落とし、それから顔をあげた。
「皆の報告を聞く前に、まずは俺から報告する。吉川夫妻の交友関係を調べた。いま一度吉川家の概略を説明しておこう。正樹、実穂子、そして失踪当日5歳の誕生日を迎えたカノンの吉川一家3人は、東京都内から2年前に足高に越してきた。呼吸器系に疾患があり喘息がひどかったらしい」
「小児喘息の持病ですか。それで具合は?」と福住。
「ああ。こちらへ越してからは、ほとんど症状は出ていないそうだ」
青木が自然なタイミングで反応した。
「こっちは空気が美味しいですからね」
「交友関係に戻る。駐在の話によると、実穂子と親しくしている、いわゆるママ友はいない。が、夫婦とも、近所付き合いは薄いものの今のところ悪い評判も立ってない」
「地方移住者に付きものトラブルは起きてないということですね」
「妻の実穂子は専業主婦、旦那の正樹の勤め先は都内。通勤には2時間かかり、遅くなって会社に泊まることもよくあるらしい」
「どんな仕事なんですか」
「・・・コンテンツ制作会社」
「具体的には?」
「詳しいことは聞いてないが、テレビ関係のようだ」
「なるほど。そういう仕事なら勤務時間は変則ですね」
「会社を訪ねて正樹の評判を聞いてみたが、若いのに仕事熱心で子煩悩、見た目と違って真面目なタイプ。酒もやらない。もちろんギャンブルも。同僚からの評判もすこぶる良く、女性問題や金銭トラブルなど、聞いたことがないという」
「人に恨まれるタイプではなさそう、ということですか」
「だな。実穂子も地域住民との軋轢はないようだし、吉川夫妻に恨みを持った者の犯行という線はなさそうだ」
「SNSは? 裏アカで他人を攻撃していたとか」
「うらあか?」
青木の斜め上からの質問に、藤原は一瞬言葉に詰まった。
それを見て鑑識の芹沢が助け舟を出した。
「正樹さん、実穂子さんともSNSの類はしていません。携帯を見せていただきましたが。日々の生活が忙しくて、と仰ってました」
「そうですか」
青木は芹沢の説明に納得しつつ、付け足した。
「いや、SNSとかやっていたら思わぬところで恨みを買って、とかありますからね」
「そうだな。盲点かも知れん。だが今回は、そこは除外できる。俺からは以上。では、青木」
「はい。では捜査資料の4から6ページ」
青木が椅子の横に立ち、捜査会議を継いだ。
「現場を含め周辺1キロ四方の田畑、用水路など、のべ7日徹底的に捜索しましたが、本人の痕跡や物証等の発見に至らず。警察犬による追跡も空振りでした。捜索範囲を自宅周辺に拡大し捜索を続行中です」
福住が続いた。
「当夜は子どもに関するものも含め交通事故は一件も通報されていません。不審人物がいたという報告もなしです。それから当夜、キナリヤの駐車場にいたすべての車両の割り出しについては、鑑識の協力を得て継続中です」
「ではその鑑識から。芹沢さん。報告お願いします」
「鑑識から報告します。犯人からの接触に備えて、吉川夫妻及び自宅固定電話にレコーダーを設置しました。しかし、発生から72時間の間に接触はありませんでした。昨日吉川宅からレコーダーを回収してきましたが、その後も犯人からの連絡はおろか、不審な電話や手紙など一切なかったそうです」
「そうですか。ではこの身代金誘拐の線は除外してもよさそうですね」
藤原はボードの“身代金誘拐”の上からバツ印を記した。
そして眉間にしわを寄せ、会議室の捜査関係者らを見回した。
「カノンちゃんに生命の危機が迫っていることは明らかだ。失踪直前にカノンちゃんが映っている映像は駐車場の防犯カメラが唯一。原点に帰ってもう一度駐車場で何があったのか徹底的に調べ直そう。引き続き、事件と事故の両面で捜索にあたってくれ」
藤原はいま一度、カノンの写真を見つめた。
カノン失踪から2週間になるのを機に、公開捜査の枠がさらに広げられることになった。
足高警察署の会議室の壁面に掛けられたテレビ画面に、自宅に庭で遊ぶカノンの全身写真が映る。
実穂子が捜査資料にと、警察に提供したものである。
重い空気の会議室で、藤原をはじめとする捜査関係者らが壁掛けテレビを、一部の刑事は自身のデバイスでテレビを見ていた。
全国放送の夜7時のニュースである。
アンカーの女性が失踪事件の概略を報じたあと、こう締めくくった。
「吉川カノンちゃんですが、何にでも興味を示す活発なお子さんだということです。一刻も早い発見が急がれます。情報をお持ちの方はお近くの警察者か・・・」
藤原は視線を壁掛けテレビから、デスクに並べられた黒電話に戻した。
会議室の片隅では芹沢が、PC画面に映るキナリヤ駐車場の粗い画像と戦っていた。
吉川宅のリビングでは、正樹がテレビに映る7時のニュースをソファに掛けて見ていた。
シロが正樹の脛に頬ずりした。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん