さよなら、カノン【小説版】
正樹はタクシーを降りると、傘もささずに福住に手を振った。
「福住さん」
「あ、吉川さん」
「見つかりましたか」
「いえ、駅周辺のパーキングすべて当たったんですが、ここが最後」
正樹はパーキングを見渡した。
黄色いボディの車はなかった。
「そうですか・・・。やはり車に乗ったまま・・・」
「電車に乗り換えていれば、と思ったのですが。吉川さん、実穂子さんが行きそうな場所に心当たりはありませんか」
正樹はしばし実穂子に関する記憶を辿った。
だがしかし
「すみません。まったく想像がつかない」
正樹は実穂子の足取りに繋がる友人関係すら、福住に提示できなかった。
「そうですか・・・。困りましたね」
「なんとか、なんとか探してもらえませんか」
「足高署管内で主要な箇所はほぼ探し尽くしました。でもいなかった。つまり、管轄外に出てしまっている可能性が高い」
「じゃあどうしろと?」
「所轄が管轄外に捜索範囲を広げるには、それなりの手続きが必要なんです」
「それなりの、って?」
「例えば捜索願とか」
「捜索願? ならいますぐ捜索願の手続きをします」
「あの、奥様が家を出られてからまだ半日。半日の時点で捜索願を出されても、警察としては受理しないでしょう。明日の朝まで待って、署まで足を運んで下されば」
「明日の朝なんて・・・。一刻を争うんです」
「わかってます。私も吉川さんの話を聞いて、娘さんと実穂子さんのこと、すごく心配しています。だけどやみくもに動いても良い結果になりません。きょうはどうか、ご自宅に帰られて奥様のお帰りを待たれては? 捜索願は明朝にでも」
福住の言うことはもっともだった。
だが何もせずにただ待つことには納得できなかった。
正樹は福住に背を向けてイライラを募らせた。
福住はそんな正樹の背中に話しかけた。
「私これから署に戻って、警察のネットワークにアクセスして実穂子さんの車の行方を追います。内規違反になると思うけど。だから吉川さん、私からの連絡を待ってください」
「福住さん・・・」
正樹は振り返って、福住の目を見た。
福住は真剣な眼差しで、正樹を勇気づけた。
「大丈夫。おふたりは必ず帰ってきます」
タクシーのワイパーが低速で動いた。
雨が小降りになり、車の窓からの視界がきくようになった。
正樹はタクシーの後部座席に身を沈めて、窓の外を眺めていた。
実穂子からの連絡を待つといっても、実穂子はスマートフォンを置いて出かけている。
別の手段で実穂子から連絡があるとしたら、自宅で待つのが最善策か。
もし連絡がなければ、警察に捜索願を出すほかないか。
それより先に福住巡査が何か手がかりを見つけてくれるか。
窓の外を眺める正樹の視界に、営業を早めに終えたスーパーキナリヤの建物が映る。
建物は雨に濡れて、すっかり夜の闇に溶けこんでいた。
小雨のなかを、タクシーは夜の県道を走行した。
ほどなくして、前方に周辺を明るく照らしだすコンビニが見えてきた
正樹は、窓に顔を近づけた。
コンビニの駐車場に停まっている車はなかった。
店内に人影も見当たらず、正樹は溜息をついた。
タクシーは緩やかなカーブを曲がり、やがて龍神口のバスロータリーに差しかかった。
窓の外をぼんやり見ていた正樹の視線が、停留所のベンチに吸いこまれた。
正樹は跳ね起きて、運転手に素早く手振りをした。
「運転手さん、停めてください」
タクシーはバスロータリーを幾分通り過ぎたところで停車した。
正樹はタクシーを降りて、バスロータリーまで駆け戻った。
バス停のベンチに人が横たわっていた。
顔に被さった長い髪と、すらりとした脚がベンチの下に垂れていた。
薄明りに浮かぶ上半身のラインは、成人女性のたおやかさがあった。
その肢体に正樹は見覚えがあった。
「実穂子」
正樹はベンチに駆け寄った。
顔は濡れた髪に隠れているが、正樹はそれが実穂子だと確信した。
パンプスは泥水で汚れ、衣服にも泥や葉クズが付着していた。
正樹はしな垂れた実穂子の手に触れた。
はっきりとしたぬくもりがあった。
「実穂子、実穂子」
正樹は実穂子の肩を掴み揺らした。
「実穂子、しっかりしろ」
実穂子は正樹の呼びかけに意識を取り戻した。
眠りから醒めたように薄く目を開き、正樹を見た。
「パパ・・・?」
「ああ、よかった・・・心配したぞ」
「ここはどこ?」
「バス停だ。今までどこにいたんだ?」
「あたし、どうしちゃったのかしら」
「カノンは?」
「あ、カノン、カノン」
実穂子は上体を起こして周囲を見回した。
「一緒じゃなかったのか」
実穂子は記憶をたどり、正樹の顔を見つめてこう言った。
「家にいるわ」
「いや、家にはいなかった」
「家にいるの。カノンは家にいる」
◇ ◇ ◇
正樹と実穂子を乗せたタクシーは自宅に到着した。
カノンが自宅にいる、という実穂子の言葉に半信半疑の正樹だったが、実穂子は一刻も早く自宅に戻ることを正樹に訴えた。
正樹より先にタクシーを降りると、実穂子は玄関ドアをすり抜け、階段を一目散に二階に駆けあがった。
実穂子の寝室の扉は開いていた。
「カノン」
真っ暗な部屋に呼びかけるが、返事も人がいる気配もなかった。
実穂子は階段を降りた。
正樹が脱衣室の壁面に設置してある配電盤のブレーカーを上げた。
家中の照明が点灯した。
「カノンは?」
実穂子は首を横に振った。
正樹は落胆の色を隠さなかった。
カノンを探し回る実穂子は、リビングのソファの上に白いヘッドフォンを見つけた。
それを見て実穂子は、思いついたように玄関から前庭へ駆けだした。
カノンと叫ぶ悲鳴に近い声がした。
と同時に、大声でパパと呼ぶ実穂子の声を正樹はキッチンで聞いた。
正樹は素足のまま前庭に飛びだした。
雨はすっかりあがり、嵐が去った夜空に下弦の月が輝いていた。
その月明りの下、さびれたブランコが揺れている。
カノンがブランコを漕いで遊んでいた。
カノンは、実穂子と正樹が泣きそうな顔で並び立っているのを見つけると
「ママ、パパ」
笑顔でふたりの元に駆け寄った。
実穂子はカノンをしっかりと抱きしめた。
正樹は大きな手を広げて、カノンと実穂子を包みこむように抱きしめた。
正樹は微笑みながら、大粒の涙を流した。
昨夜の荒天が嘘だったかのような晴れ渡った朝早く、正樹は慌ただしく革靴に踵を収めた。
玄関を出て振り返り、カノンを呼んだ。
カノンは小学校の真新しい制服を着た自分を姿見に映し、ご満悦だった。
「カノン」
なかなか姿を現さないカノンに、正樹は焦れてもう一度呼んだ。
玄関から出てきたカノンに正樹が言った。
「ほら、横に立って。写真撮るぞ」
敷石の上にスマホ用に三脚が置かれている。
実穂子はスマートフォンのタイマーをセットして、正樹とカノンの横に並んだ。
シャッター音がして、3人家族の写真が保存された。
県道のほうから短いクラクションが二度鳴るのが聴こえた。
実穂子はスマートフォンの時刻表示を見た。
「お迎えが来たみたい」
「いよいよだな、カノン」
正樹はカノンの頭を撫でた。
「忘れ物ない? ハンカチ持った?」
「うん」
カノンは明るく返事をした。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
「僕も行ってくるよ」
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん