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さよなら、カノン【小説版】

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タイヤを軋ませながら、サーブは何かに激しく衝突して停まった。
フロントガラスが半分砕けて、細かい破片が車内に散らばった。
実穂子はハンドルに額を打ちつけた。
その状態のまま、実穂子は暫く動けなかった。


キャンプ用のLEDランタンが停電の室内を仄かに明るく照らした。
ダイニングテーブルの傍で、正樹は濡れた頭髪をバスタオルで拭きながら携帯電話で通話していた。
電話の相手は福住であった。
「実穂子がケータイを置いていくなんて、今まで一度もなかった」
「心配なお気持ちはわかります。でも何か事情があって持ちだせなかったのでは?」
「今朝は二人とも機嫌良さそうだった。実穂子もカノンも、ニコニコしていた」
「だから、きっとお二人でお出かけして、遅くなっているだけなんですよ」
「実は夕べ、ちょっと言い合いになって・・・。手をあげてしまったんです、実穂子に」
「手をあげた・・・?」
「はい」
「まあ、どうして?」
「実穂子がカノンのことを、要らない子、だと」
「要らない子?」
「しかも、カノンが聞いている前で」
正樹は携帯電話を耳にあてたまま、濡れたシャツを脱いでスウェットに着替えた。
「まあ酷い。どうしてそんなことを?」
「カノンが戻ってきてから、実穂子の様子が変なんです。情緒不安定というか」
「大丈夫。帰ってきますよ、吉川さん。信じて待ちましょう」
「いや今度は違う」
正樹の語気が強くなった。
「何が違うんです?」
「なくなっているんです、土を掘るスコップが。ビニールシートも。物置小屋から」
福住は正樹が心配していることを察した。
福住自身も、一抹の不安を感じられずにいられなかった。


破れたフロントガラスから激しく雨が降りこんできた。
雨が実穂子の頭頂部の髪を濡らした。
髪に降りかかる雨が、実穂子の額やこめかみをつたい彼女の鼻先から雨だれとなって落ちたとき、実穂子は意識を取り戻した。
実穂子はハンドルから手を離し、額を指先で触った。
「痛っ」
反射的に声が出た。
しかし額なのか手なのか、はたまた首の脊椎なのか、痛みの出所が判然としなかった。
助手席にカノンはいた。
ぬいぐるみの腹に顔を埋めてぐったりしていた。
「カノン」
返事はなかった。
サーブのリアウィンドウが窓枠ごと脱落し、雨が車内に流れこんでいた。
実穂子は意識を集中して車の前方に視線を移した。
変形したボンネットの縁から湯気とも白煙ともつかぬものが湧きたっていた。
再び稲妻が光り、実穂子は太い柱を目の当りにした。
サーブが鳥居の柱にぶつかって停車したことを、実穂子は悟った。
白煙が実穂子の足元から車内に流れこんできた。
実穂子はシートベルトを外した。
ドアを開けようとノブを引くが、ノブが空を切って反応しない。
実穂子は、立ちのぼってきた白煙を吸ってむせこんだ。
実穂子の隣でカノンが、ううっと唸り声をあげた。
カノンはぬいぐるみから顔を離した。
途端にカノンの顔に激しく雨が降りかかり、カノンは目が開けられなかった。
「ママ、どこ?」
カノンは目をつむったまま、呟いた。
「カノン、シートベルトを外しなさい」
実穂子はドアを足で蹴った。
しかしドアが開く気配はない。
実穂子は窓の手動ハンドルを両手で回した。
窓が半分降りたところで、実穂子は外側に手を伸ばした。
それから手探りで外側のノブに指をかけて引く。
カチャっとドアが開き、隙間ができた。
実穂子はむせこみながら、ドアに体を浴びせて転がるように車外に出た。
サーブのフロントグリルが、鳥居の脚の台座部分にめりこんで白煙をあげていた。
稲妻が走るたびに周囲の様子が把握できるようになった。
雨は激しく降り続き、山から滝のような泥水が道路に流れつき溢れた。
落石が断続的に続き、滑り落ちてきた倒木や折れた木々が道路を埋め尽くした。
鳥居の脚元に、ひと抱えはある巨石が滞留している。
巨石の圧力を受けて、鳥居が神楽沢湖側にやや傾いていた。
地面が揺れた。
鳥居の台座から地面に亀裂が走り、実穂子はバランスを崩しかけた。
その亀裂の上にサーブの前輪が乗りあげていた。
道路に溜まった雨水が、亀裂に吸いこまれる。
よろけながら実穂子はサーブに近づいて、車内のカノンに声をかけた。
「カノン、早く」
カノンはぬいぐるみを脇に置き、懸命にシートベルトを押し広げようと試みた。
しかしシートベルトはカノンの腹部に貼りついてびくともしない。
「ベートが外れないよ」
「ふざけてないで、早くしなさい」
カノンはなおも、シートベルトを手で押し広げようと格闘した。
「ベートが外れないの」
「左側に赤いポッチがあるでしょ。それを押すの」
カノンは、座席の角にあるバックルを探した。
ロックを解除する赤いポッチを備えたバックルである。
しかしバックルは、座席と変形したドアの間に埋もれていた。
座席に捕縛されたカノンから、それは見えなかった。
カノンは実穂子に向かって首を横に振った。
「ママ、わかんない。ママ」
車内に滞留する白煙を吸いこんだのか、カノンは咳こんだ。
サーブのタイヤ下の亀裂が目に見えて広がった。
巨石の元に太い幹の倒木が流れつき、鳥居の傾きがさらに大きくなった。
実穂子は傾いた地面に立ち続けた。
実穂子の表情からふぅっと喜怒哀楽の感情が失われた。
「ママ・・・ママ・・・」
カノンの声に実穂子は、身じろぎひとつせず、傷だらけのサーブを眺めた。
柵の鉄チェーンが、支柱もろとも端から連鎖して崩落し、崖下に落ちていった。
サーブのタイヤが地面の亀裂にはまり、車体が湖側に大きく傾いた。
実穂子は一歩退いて、助手席のカノンを見つめた。
濡れそぼった犬のぬいぐるみを再び胸に抱いたカノンは、何度も咳きこんだ。
咳きこんだ後、呼吸を整えようとするが、ままならなかった。
ぜーぜーと破れた風防のような音が喉元で鳴った。
息を詰まらせて咳こむ。
喘ぐようにカノンの口が開いては閉じる。
苦しい息遣いのカノンは、顔を引きつらせて車外に立つ実穂子に助けを求めた。
「ママ・・・」


正樹を乗せたタクシーがスーパーキナリヤの駐車場出入口に停車した。
出入口は閉鎖されており、警備員がレインコートを着て立っていた。
駐車場には一台の車も停まっている様子はなかった。
「ちょっと待っててもらえますか」
タクシーの運転手にそう言って車を降りると、正樹は警備員のところに向かった。
「まだ営業時間じゃないんですか」
正樹は警備員に問いかけた。
「すみません。避難勧告が出たんで、閉店時間が1時間前倒しになりました」
「店内に客は?」
「お客様は皆お帰りいただきました。おひとりも残っていないはずです」
「・・・そうですか」
スーパーキナリヤの屋上看板照明が消灯した。
実穂子が買い物に立ち寄ってないかと期待した正樹だったが、淡い望みは霧消した。
正樹はタクシーに乗りこみ、運転手に告げた。
「駅のほうへ」

雨が降り積むなか、タクシーは駅前のロータリーを低速で走った。
駅前のコインパーキングのフェンス脇にミニパトが停まっているのを見つけると、正樹は運転手にミニパトの後ろにつけるよう言った。
コインパーキングでは福住が合羽を着て、停まっている車を懐中電灯で照らしていた。