さよなら、カノン【小説版】
第一章
=== 2年前 ===
片方閉められた鉄の門扉の前で、カノンは幼稚園の先生に手を繋がれ、母親の迎えを待っていた。
カノンが被っている黄色い幼稚園帽子にも、着ている体操着の胸にも、“浅葉幼稚園”の縫い取りがあった。
少し大きめの半ズボンの後ろポケットには、フェルトペンで“よしかわかのん”と平仮名で名前が記されている。
門扉の内側は園舎の際まで土の校庭になっているが、そこには誰もいない。
強い陽ざしがいくらか和らいだ8月の午後、ほとんどの園児は帰宅していた。
ガタガタと黄色い車体を揺らし、一台の車が幼稚園に近づいてきた。
幼稚園を取り囲む道路はどこも未舗装で、車が通るたび土埃が舞う。
フロントノーズとリアハッチに、(SAAB)と社名ロゴが刻まれた車は、幼稚園の門柱を過ぎた辺りで停まった。
実穂子は助手席のドアを開け、低い姿勢のまま幼稚園の先生に軽く会釈をした。
「すいません、遅くなっちゃって」
そう言うと実穂子はカノンをサーブに招き入れた。
「それじゃ、気をつけてね。カノンちゃん」
カノンはすでに先生の手を離していた。
サーブの開いた助手席ドアから、カノンは這いのぼるように座席についた。
サーブが発進する間際、カノンは窓に顔を近づけ幼稚園の先生に小さな手を振った。
◇ ◇ ◇
県道に面し広い平面駐車場を有するスーパーマーケット「キナリヤ」は、過疎化が進む足高町にあって、地域最大で唯一の大型商業施設であった。
平日の夕方と休日は、広い商圏から様々な客層の買い物客が訪れた。
その多くは自家用車でやってくる。
そのため広い敷地の平面駐車場とはいえすぐに満車になり、県道脇に車列ができることは稀ではなかった。
その日も駐車場の出入口で誘導員が、満車の札を持って車両入退場の整理をしていた。
実穂子の運転する黄色いサーブも短い時間車列に並んだ後、駐車場内の空いた枠に収まった。
派手すぎずこざっぱりした身なりの実穂子が運転席から降りた。
助手席では、カノンが腰だけのシートベルトをして座っている。
ベルトを外して降りようとするカノンに、実穂子はハンドバッグをたぐり寄せながら言った。
「カノン、カノン」
実穂子に呼びかけられたカノンは、実穂子に注意を向けた。
「ママすぐに戻ってくるから」
「カノンも行く」
「カノンは車で待ってなさい」
カノンはぐずった。
実穂子がキナリヤで買い物をするときは、大抵カノンも同行した。
しかしこの日は実穂子に目論見があって、カノンを車内に残すと決めていた。
停車しているサーブのすぐ前を、カラフルに装飾されたキッチンカーが通りすぎた。
「いい子にしていたら、とってもいいものあげるから」
実穂子の懐柔策に渋々、カノンは不機嫌の矛を収めた。
「ママが戻るまで車の中にいるのよ。いい?」
頷いてカノンは固まったようにじっとした。
サーブのドアを閉め、実穂子はひとりでキナリヤのエントランスに向かった。
車内から実穂子の後ろ姿を追っていると、原寸大と見紛うほど大きなキリンの空気人形がカノンの視界に入った。
それは2体あり、軽トラックの荷台に積まれたものだった。
軽トラックに載せられた2体のキリンは、サーブの前をゆっくり通り過ぎる。
カノンは首を伸ばして軽トラックの行方を追った。
視界から消えそうになるキリンを追いつつ、カノンは腰を締めつけるシートベルトを緩めようと手で押し広げた。
スーパーのエントランスで実穂子は一度自分の車を振り返った。
一段高くなったエントランスで、さらに背伸びをして実穂子はサーブを視た。
サーブのフロントガラス越しに、幼稚園帽子の黄色が見え隠れした。
カノンが言いつけを守っていることを確認して、実穂子はキナリヤの店内に入った。
実穂子の目的は、スーパーのテナントのケーキショップ。
個人経営の店ではあるが、オーナーが有名店で修業を積んだパティシエとあって、すこぶる評判は良い。
そしてこの日も数人の行列ができていた。
実穂子は店員に予約票を見せたが、「順番に対応しています」と言われ、列の最後尾に並んだ。
年配のふたりの婦人が先客だった。
トッピングのフルーツについていちいち店員に尋ねたり、どれがよいか相談し合ったりして時間がかかった。
実穂子は順番を待ちながら。少しイライラが募った。
軽トラックは車路を右折し、積載されている2体のキリンがついにカノンから見えなくなった。
カノンはシートに深く身を沈めた。
するとまたキリンが戻ってきた。
カノンは喜々とした。
力まかせにシートベルトを両手でグイと押し広げて、ベルトの下を潜り抜けた。
被っていた幼稚園帽子がシートベルトに引っ掛かかった。
顎ひもが簡単に外れ、幼稚園帽子はシートの下に落ちた。
カノンは助手席のドアレバーに両手を置き、体重をかけて押し下げた。
助手席側のドアが少し開いた。
◇ ◇ ◇
”よしかわかのん おたんじょうびおめでとう”
白い化粧箱からメッセージのついたホールケーキを半分引きだし、ケーキ屋の女性店員は実穂子に見せた。
実穂子は支払を済ませ店員からケーキの入った紙バッグを受け取った。
スーパーのエントランスを出ると、陽の暮れた駐車場はさらに混雑が増していた。
実穂子は行き交う車を避け、大小様々な駐車車両の間を縫ってサーブに向かった。
実穂子がサーブを見たとき、実穂子は異変に気づいた。
サーブの助手席側のドアが半ば開いていた。
実穂子は慌ててサーブに駆け寄った。
助手席に伸びきったシートベルトと、黄色い幼稚園帽子。
カノンはいない。
「カノン、カノン」
後部座席にもいない。
車内空間にカノンはいなかった。
血の気が引き、実穂子はケーキショップの紙バッグを地面に落とした。
実穂子はカノンの名を呼びながら車の周囲を探した。
駐車場出入口で忙しく立ち働く誘導員を見かけると、実穂子は誘導員にぶしつけに尋ねた。
「うちの子、見ませんでしたか」
誘導員は背後から聴こえる女性の声に面喰った。
誘導員が振り向くと、実穂子は手で地面から股下位の高さを作った。
「これくらいの女の子で」
誘導員は軽く首を横に振った。
しかしなおも畳みかける実穂子に誘導員は実穂子の話を聞かざるを得なくなった。
車の誘導を中断し、実穂子の話に耳を傾けながら、誘導員は警備員室に無線を飛ばした。
間を置かずして店舗マネージャーが、ふたりの警備員を引き連れて店舗内から実穂子の元に駆けつけた。
マネージャーは手帳を開いて、あらためて実穂子からカノンがいなくなった状況を聞き取った。
大柄な隊長クラスの男性警備員は早速駐車場に並んだ車の間を捜索し始めた。
精悍な顔立ちの女性警備員は実穂子とともに店内に戻った。
カノンが実穂子のあとをついて行ったのでは、という推測からだった。
実穂子はガラスショーケースを拭き掃除するケーキショップの店員に、スマートフォンで撮ったカノンの写真を見せて目撃の有無を尋ねた。
空振りだった。
ケーキショップに隣接するテナントの従業員にも軒並み目撃情報を求めたが、カノンらしき子どもを見た者はいなかった。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん