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さよなら、カノン【小説版】

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序章



体育館のカエデ色のフローリングを自動洗浄機が、モーター音を響かせ滑らかに移動している。
機械が通り過ぎた後の床面は、幾分かツヤが増す。
清掃業者によって延長コードがドラムに巻き取られた。
バスケットボールの試合が行われた体育館は、清掃作業の終了とともにその熱気の余韻も取り払われた。
無人になったコートを照らす、最後の照明が落とされた。
公営の小さな体育館は、新たなゲームに備えて休息モードに入った。


幹線道路の分岐から地方都市を結ぶ県道を、一台の車が走っていた。
低い雲が垂れこめる、星のないじめっとした夜だった。
車内にはカーラジオからニュースが漏れていた。
落ち着いた語り口調のキャスターがニュース原稿を読みあげる。
吉川実穂子は車のハンドルを握り、そのニュースを聴くとはなしに聴いていた。
唐突にニュースのコンテンツが終わった。
通常のレギュラー番組になり、お笑い芸人がオープニングトークを始めた。
実穂子はラジオのスイッチを切った。
運転する実穂子ひとりしか乗っていない車のなかは、いきなり静寂に包まれた。
聴こえてくるのは、アクセルを踏みこんだときの低いエンジン音とロードノイズのみ。
南関東の田園地帯の夜は、広大な田畑の向こうに民家の灯りが点在しているだけだった。
いくつかの小高い山々と肥沃な農作地が織りなす里山を、実穂子を乗せた車は滑らかカーブをいくつも描いて走行した。
県道沿いにぽつんと建つ無人販売所の看板を、ヘッドライトがかすめた。
このドライブの最終目的地まで、あと少し。
実穂子は片手でハンドルを握り、もう片方で、助手席に無造作に投げたポシェットを取ろうとした。
指をピアノの運指のように動かしたが、ポシェットに触れることができなかった。
そのため実穂子は、前方から助手席に視線を反らした。
ほんのわずかの間だったが、走行する車が右に寄り、中央線を踏んだ。
次の瞬間、骨幹を震わす大型トラックのクラクションが、強烈な光とともに実穂子を襲った。
実穂子は慌ててハンドルを切り、路肩に車を停めた。
激しく心臓が脈打ち、手のひらに汗が滲んだ。
停止した車のヘッドライトが、積みあげられた稲わらの山を照らす。
実穂子は心臓の鼓動が収まるのを待って、車を車道に戻した。
少し速度を落として走る。
無人販売所からわずかな距離にあるコンビニエンスストアを通過した。
しばらく暗闇が続き、車は大きなカーブにさしかかった。
カーブを曲がる直前、ヘッドライトがとらえたのは、公営バスの停留所だった。
停留所の表示板に、「龍神口」の文字。
バス路線の終点であるため、そのバス停は大型車が難なく進行方向を変えられるロータリーを有していた。
バス停そのものは、トタン屋根と粗末なベンチが置かれただけの簡便な造りであった。
だがロータリーがカーブのコーナーにあるせいで、反対車線を走っている時にバス停全体が一瞬目に入るのである。
そして車がコーナーを曲がらんとする刹那、実穂子はベンチに人影のようなものを見た。
夜も更けた深い時間、バスを待つ客などいない時刻である。
バス停のトタン屋根の端で、街灯が申し訳程度にチラついていた。
かろうじて停留所の存在を知らせているようだった。
実穂子は急ブレーキをかけ、道路脇に車を停めた。
車を降りて、バスロータリーのほうに視線を向ける。
ちらつく街灯に照らされて、バス停はぼんやりと浮かんで見えた。
バスロータリーを見据えながら、実穂子は道路脇をトタン屋根の下のベンチが見える所まで駆け戻った。
離れた場所からベンチに目を凝らす。
何かがいる。誰かだ。
ベンチに伏して倒れているように見えた。
それは幼い子どものようだった。
実穂子の鼓動が乱れた。
もしかして・・・。
薄汚れた運動靴を履いた足が地面から浮いている。
「カノン・・・」
実穂子は思わず呟いた。
眩しい光が実穂子に接近し美穂子の横を、砂埃を巻きあげて通り過ぎた。
残光と砂埃で、実穂子はしばし視界を奪われた。
あらためて実穂子は、前のめりにベンチを見つめた。
今度は長い警笛音に鼓膜を襲われた。
一歩身を引いて、実穂子はクラクションを鳴らし続け走り去る乗用車をやり過ごした。
クラクションの音がベンチに伏せる少女を目覚めさせたようだった。
少女は薄目をあけた。
周囲の様子に注意を向けながら、ベンチに手をつき上体を起こした。
少女は、自分の名前を呼ぶ声の方向に顔を向けた。
薄墨色に染め抜かれた闇の中に、何かが朧気に浮かんでいるのが少女から見えた。
それは人の形をした何かであった。
「カノン」
宵闇を切り裂いて、実穂子が叫んだ。
その声は少女の耳に届き、少女は実穂子のほうを見た。
実穂子はベンチの少女を見据えたまま、車道を横断する。
「カノン!」
少女の名前を叫びながらバスロータリーを奥へと突き進む実穂子。
少女の目に映る女性の姿は、間違いなく母親であった。
しかし少女の記憶にある母親は、常に笑顔を絶やさない穏やかな女性である。
偶に悪さをして叱るときでも、母親の表情には優しさの余白があった。
ところが近づいてくる女性の声は切迫しており、その表情は般若の面のようである。
きっと自分は許されないほどの悪さをして叱られるのだろう、と少女は思った。
そしてその悪さに心当たりもあった。
叱られるのは怖かった。
だがそんな怖さをかき消すほど、沸き立つ思いが少女にはあった。
母親に会いたかった。
実穂子はベンチの前で膝立ちになり、少女の手をそっと握った。
少女は実穂子を見つめ声を発しようとしたが、声にならなかった
ただ唇だけが
「・・・ママ・・・」
と動いた。