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さよなら、カノン【小説版】

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インターホンの通電を知らせる赤いランプが消えていた。
「実穂子、帰ったよ」
正樹は玄関ドアをノックした。
何度かドアを叩くが、応答がなかった。
外出しているのだろうか、と正樹は前庭を見回した。
縁側の軒下に干された白い洗濯物が、雨に打たれ揺れていた。
物置小屋の引き戸が少し開いたままになっていることも気にはなったが、正樹はまずポケットから家鍵を取りだして玄関ドアを開けた。
真っ暗な空間が広がっていた。
落雷が影響して停電したのだろう、と正樹は思った。
室内に人の気配はなく、屋根を打つ雨音を除けば物音ひとつ聞こえなかった。
遮光カーテンが閉められたリビングも闇に沈んでいる。
キッチン脇のスマホ充電スタンドから弱い光が放たれていた。
正樹はスタンドのスマートフォンを手にとった
自分の携帯電話を取りだし、実穂子の電話を呼び出した。
正樹の手の中でスマートフォンが振動しマリンバの呼び出し音が鳴った。
”パパ・まさき”という文字が画面に明るく表示された。
「実穂子・・・」
そのスマートフォンが実穂子のものに違いないと確信すると同時に、正樹は実穂子がスマートフォンを置いて外出したことに違和感を覚えた。
「実穂子、カノン」
暗い室内を見回し、正樹は宙に向かって妻と娘の名前を呼んだ。
返事はなかった。


山から流れ落ちたのだろうか。
太い幹の倒木が道路上に倒れこみ、対向車線を塞いでいた
砂利の混じった雨水が、倒木を起点に道路上を川のように流れた。
実穂子はハンドルを切って道路を塞ぐ倒木を避けた。
サーブの車体の側面がガードレールに接触し、蛇行する。
稲妻が走った。
その刹那、頭上の雷雲と山々の稜線が朧げに浮かびあがった。
サーブはダム湖を抱える神楽沢の谷間に差しかかった。
「ママ、どこに行くの?」
助手席からカノンは実穂子に訊ねた。
雷鳴が平気なのか、ドライブを楽しんでいるのか、ぬいぐるみを膝に抱き暢気な様子だった。
「ん・・・? いいところよ」
実穂子がそう答えると、カノンは「やったー」と目を輝かせた。
視界が悪化するなか、ハンドルを握る実穂子の目に涙が溢れた。

サンダルをつっかけて正樹は前庭に出た。
駐車ロットに目を凝らす。
サーブが停まっていない。
実穂子はカノンを連れて車で外出したのか。
正樹は中途半端に開いている物置小屋の戸が気になった。
隙間から雨が降りこんでいるようだった。
正樹は、物置小屋の引き戸を開いて中を調べた。
想像以上に遊具や園芸道具が散らかっていた。
そのなかで正樹は異変を感じた。
あるべきところにあるものがなかった。
雨音を切り裂いて、何やら呼びかける拡声器の音が聴こえてきた。
それは県道のほうから聴こえてきており、音源は移動しているようだった。
”足高町全域に避難勧告が発令されました。お家におられる方は・・・”
その声色に、正樹は聞き馴染みがあった。
正樹はサンダルのまま、雨の中を県道に向かって全力で走った。
正樹の目の前を、駐在を助手席に乗せたミニパトが低速で通り過ぎた。
正樹はミニパトの後を追ったが、追いつかない。
ミニパトが遥か前方で停車した。
ミニパトの窓から、男が顔を突きだした。
その男は、果たして駐在の柳井だった。
柳井は、傘合羽を着て畦道を歩く男性に向かって叫んだ。
「兵頭さん、用水路見に行っちゃだめ」
初老の農業従事者である兵頭が、柳井を振り返った。
「あそこの羽根柱、手でやらんと水が流れんのじゃ」
「行ったら危ないって」
雨が激しくなり、雷鳴が轟いた。
兵頭は逡巡した。
「私がやるから、戻ってきて」
柳井が兵頭を説得した。
兵頭は暫く思案したあと、渋々畦道を県道に引き返した。
ミニパトに追いついた正樹は、息を切らしてリアウィンドウを叩いた。
「駐在さん、うちの、見ませんでした?」
「わ、びっくりした」
傘もささずずぶ濡れの男性に、柳井は身構えた。
「えぇと、あ、吉川さん?」
その男性が正樹だとわかると、普段の純朴な口調で問い返した。
「どうしました?」
「うちのやつと子ども、見かけませんでしたか。おそらく車で・・・」
「吉川さん家の車といえば・・・黄色い外車」
「はい、黄色のサーブです」
柳井は首を傾げて思考を巡らせた。
「いや、きょうは見てませんね。ところでどうかなさったんですか」
兵頭が畦道から県道にあがってきた。
段差に足をかけたところで、兵頭がふたりの会話に口を挟んだ
「黄色い車かね」
「見たんですか」
正樹は、段差をのぼる兵頭に手を貸した。
「畑仕事しよったら道んとこで大きな音がしてな。見たら黄色い車が停まっていた」
「大きな音?」
「ああバックなんとかとか言いよったかな」
「バックファイヤー」
「それそれ。今どき珍しいと思いよったら、見てる間にまた走りだして」
「どっちに走っていきました?」
「町のほうじゃ」
「何時ごろですか」
「何時かはよくわからんが、まだ畑に陽が射しよった時間やな」

山肌を流れ落ちる土砂に、ゴルフボール大の石ころが混じる。
激しい雨が降り続く山道を、実穂子が運転するサーブは時折水しぶきをあげ走行した。
山肌が大きく崩れ、対向車線の上に土砂が積もる横を、サーブは巧みにすり抜けた。
道路を半分埋め尽くした土砂の上に、さらに流れついた樹木が覆い被さった。
実穂子は、その様子をバックミラーでちらっと確認した。
フロントガラスに容赦なく雨は降り注ぎ、ワイパーが忙しく動いて雫を取り払った。
ハイビームの前照灯が、雨で霞む山道を照らしだす。
道路の白線と白色のガードレールがゲームのように後方に飛んでいった。
落石を踏みつぶす度に、サーブは小さくバウンドした。
助手席ではカノンがバウンドする車体に合わせて、身体をわざと上下に弾ませた。
山肌で跳ねた小石がサーブのフロントガラスの角に命中した。
フロントガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入った。
カノンは、白い犬のぬいぐるみを強く胸に抱えなおした。
道路に打ちつける雨や泥水が、サーブと同じ進行方向に勢いよく流れる。
泥水に乗りあげたタイヤは何度もスリップした。
ヘッドライトが前方にある障害物をとらえた。
崩れた土砂と太い幹の倒木が、前方の道路を走行車線と対向車線ともに、完全に塞いでいた。
ぶつかる。
実穂子はブレーキを踏みこんだ。
しかし制動が効かない。
サーブは左右にローリングした。
ハンドルを取られないよう、実穂子は両腕に力をこめた。
サーブは流れる泥水に阻まれて速度が落ちない。
実穂子はハンドルを左に切った。
サーブがガードレールに衝突した。
ガードレールの向こう側は崖地と湖面である。
カノンは目を強く閉じた。
衝突の衝撃で左の前照灯が破砕した。
実穂子は車体の左側面をガードレールにこすりながらハンドル操作した。
火花を散らしながら、サーブは少しずつ速度を落とした。
だが、突然ガードレールが途切れた。
サーブのハイビームに瞬時、灰色の鳥居が浮かびあがった。
次にヘッドライトがとらえたのは鉄のチェーン柵だった。
サーブはチェーン柵めがけて突っこんでいった。
実穂子は祈る思いでハンドルを目いっぱい右に切った。
サーブは鉄チェーン柵寸前で大きく進行方向を変えた。