さよなら、カノン【小説版】
フライパンの上でスクランブルエッグがいい具合に焼けている。
コーヒーメーカーのポットから湯気が立ちのぼる。
実穂子はマッシュしたゆで玉子を、バターナイフでサンドイッチ用のパンにスプレッドした。
傍らのポータブルラジオから気象予報士の声が流れる。
「前線の影響で西から天気が崩れるでしょう。午後には各地で積乱雲が発生し、山沿いでは雷を伴った激しい雨になる見こみです」
正樹がジャケットに着替えながら階段を降りてきた。
「おはよう。お、いい匂いだな」
テーブルにはカノンがニコニコして座っている。
実穂子は、小さく切ったサンドウィッチとオレンジジュースをカノンの前に置いた。
「カノン、おはよ」
正樹はカノンの頭を軽く撫でた。
カノンはサンドウィッチを頬張り口をもごもごさせた。
正樹はキッチンに立つ実穂子の背後に立った。
「夕べは済まなかった」
目を合わせず俯いたまま小声で実穂子に言った。
実穂子は首を横に振って
「あたしがいけなかったの。どうかしてた。あたしのほうこそごめんなさい」
ぎこちない笑顔を正樹と交わした。
正樹はカノンを振り返り
「カノン、機嫌良さそうじゃないか」
あんなことがあったのに、という言葉は呑みこんだ。
実穂子はサンドイッチをランチボックスに詰めながら
「カノンはいい子なの」
と、呟くように言った。
正樹はビジネスバッグを肩にかけた。
「食べていかないの?」
「ああ、きょうは早出なんだ。その分早く帰れる」
正樹は玄関でスリッパから革靴に履き替えた。
「これ持って行って」
実穂子はサンドウィッチの入ったランチボックスを正樹に手渡した。
「お、ありがとう」
ランチボックスを、正樹はビジネスバッグにしまった。
「じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「行ってくるよ、カノン。お土産買って帰るからな」
正樹は玉子を頬張ったカノンを微笑ましく見つめて、ドアノブに手をかけた。
実穂子は玄関に立ち、正樹を見送った。
正樹が門扉を抜け見えなくなると、実穂子の表情から温かみが消えた。
作り笑顔で実穂子はカノンに言った。
「洗濯物干したら、お出かけしようか」
「うん」
カノンは嬉しそうに返事をした。
◇ ◇ ◇
縁側の軒下で、バスタオルとバスローブが物干し棹に吊るされている。
実穂子は物置小屋で、散乱したおもちゃ類や園芸道具を片づけながら探し物をした。
そして実穂子は、隅のほうで埃を被っている重みのある角スコップを掴んだ。
サーブのトランクルームのハッチは開いたままになっていた。
実穂子は車の後ろに回りこみ、角スコップをブルーシートと麻ロープの上に投げ入れだ。
ハッチを閉め、実穂子は扉が開いた玄関に向かって、カノンに呼びかけた。
「用意できたの?」
実穂子が声をかけると、カノンは可愛らしい洋服の上にレインコートを着た上に、雨傘をさして玄関先に現れた。
「バカ。まだ雨降ってないでしょ。はやく脱いで」
強引に脱がせたレインコートと雨傘を、実穂子はサーブの後部座席に放りこんだ。
「乗って」
カノンは助手席に這いのぼった。
「シートベルトをしなさい」
カノンは旧式のシートベルトの先端を器用にバックルに差しこんだ。
助手席のドアを閉めた実穂子は
「ちょっと待ってて」
とカノンに言って、家に戻った。
縁側や勝手口の戸締りを確かめた後、リビングにいるカノンに話しかけた。
カノンはヘッドフォンをしてテレビ画面の出演者の動きに合わせて身体を動かしていた。
「カノン」
実穂子はカノンのヘッドフォンを外した。
「カノン、ドリルは終わったの?」
「全部やった」
「そう、えらいわ、カノン。ママ、ちょっとお出かけしてくる。お留守番できる?」
「うん」
「いい子。誰か知らない人が尋ねてきても玄関開けちゃだめよ。それから戸締りしてあるから、ママが帰るまで外に出ないで。わかった?」
「うん、わかった」
「お腹すいたら冷蔵庫にサンドイッチあるから。もし何かあったら、ママの部屋に隠れなさい。内側から鍵をかけてね」
モクモクとした積乱雲がそびえ立つ夏空のなか、黄色いサーブが実穂子とカノンを乗せて、長い道のりを走行した。
速度を落としたサーブは、○○動物園の駐車場ゲートに差しかかった。
だがゲートの前には赤いコーンが2本置かれ、”本日休園”の告知板が掲げられていた。
サーブはひっそりとした動物園の駐車場を後にした。
◇ ◇ ◇
イルカショーのステージを観覧する客が、ぽつりぽつりと階段状の客席を埋め始めた。
イルカのイベントプールは開演のときを待っていた。
神秘的に演出された屋内水槽では、ミズクラゲがふわふわと縦横無尽に泳ぐ。
大小の水槽が並ぶ水族館の通路を、実穂子とカノンは手を繋いで歩いた。
チンアナゴのユーモラスな動きにカノンは興味津々だ。
ジンベエザメの大きさに、カノンは目を丸くした。
マゼランペンギンが泳ぐ水槽を横目に、実穂子とカノンは先を急いだ。
家族連れやカップルで賑わうイベントプールの前方席に、実穂子とカノンは陣取った。
イルカが高くジャンプし、着水する時に勢いよく水しぶきがあがった。
客席の歓声や水しぶきを浴びる客を見て、カノンは大はしゃぎした。
水しぶきがかからないであろう座席だと油断したのか、カノンも髪や顔に水しぶきを浴びてしまう羽目になった。
それでもカノンは大喜びした。
調教員の手振りに合わせて、数頭のイルカが水中から勢いをつけて空中へ高く飛ぶ。
回転したりひねりを入れたりしながら、イルカたちは何度も何度も宙を舞った。
上空はいつの間にか低く垂れこめた黒い雲が広がり、空一面を覆い始めた。
その雲の底に一瞬、眩い稲光が走った。
慈翠庵。
鎌倉鶴岡八幡宮の東に位置する天台山の南斜面にその尼寺はあった。
自らの名を冠し、慈翠が終の棲家とするために庵を結んだ。
晴れた日には、庵の山門から由比ガ浜海岸の先に広がる相模湾が見渡せた。
決して大きくない寺だが、庵にはこぢんまりとした庭園があった。
天台山に稜線を借景にして、季節の移ろいが感じられるよう四季の樹木が植えられていた。
夏の夕暮れ時、山から吹きおろす風が庭木の枝を揺らし、さわさわとした葉擦れの音を聞くのが、慈翠の愉しみのひとつであった。
だがその日はいつもより風が強く吹いていた。
濃い灰色の雲が空を覆い、雨が降りだす前の湿った匂いが庭園に漂った。
矢島は慈翠の傍らに立ち、暗い雲の底を見あげた。
「いま光りましたね。御簾を降ろしましょうか」
矢島が慈翠に言った。
「いいえ。しばらくそのままに」
慈悲は車椅子を少し庭園側に寄せ、漂う空気を読みとった。
「どうかなさいました?」
「なぜか胸がざわつくの。何かしら。良くないことが起きそうで・・・」
遠くで雷鳴が響いた。
慈翠庵の瓦葺の屋根と庭園の樹木を、降りだした雨が濡らし始めた。
白線の後ろから選手がスリーポイントシュートを放った。
ふわっと浮いたボールはリングに触れることなく、ネットに吸いこまれた。
「レイシェルズ再度逆転です。残り5秒」
アナウンサーが興奮気味に実況する。
スタンドの観客は歓声をあげ、メガホンを打ち鳴らして沸いた。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん