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さよなら、カノン【小説版】

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小さな鳥居をくぐり、道路脇の歩道に出る。
歩道をしばらく歩き、藤原が道なりの先のトタン屋根を指さした。
「そしてあの場所で力尽きた」
青木が目にしたのは、龍神口のバスロータリーであった。


縁側に足を投げ出して座っているカノンがいた。
膝頭の絆創膏、腫れた左頬には冷却湿布が貼られていた。
足をぶらぶらさせるだけで、元気がなかった。
カノンは時折、玄関のほうに注意を向けた。
だが、何も変化は起こらない。
玄関ドアは固く閉ざされ、開く気配すらなかった。
カノンはただ、しょんぼりとうなだれた。
リビングではヘッドフォンを被り、テレビに向かって知育玩具で遊ぶカノンがいた。
キッチンシンクには、済ませたばかりの夕食の食器が洗われずにそのまま残っていた。
ダイニングテーブルに肘をついて、実穂子は何度も溜息をついた。
テーブルの上にはグラスの底にわずかに残った白ワインと、空のワインボトルがあった。
「帰ったよ」
戸外から聴こえてきた正樹の声に、実穂子は我に帰った。
玄関を開ける寸前、正樹は縁側にカノンが座っていることに気づいた。
正樹は先にカノンの元に歩み寄った。
「ただいま、カノン。いい子にしてたか」
正樹はカノンの左頬に湿布が貼られているのを見てとった。
カノンの顔の左半分が腫れていた。
「どうした? そのほっぺた」
カノンは俯いたまま、返事をしなかった。
カノンの手を引いて、正樹は血相を変えて玄関ドアを開けた。
実穂子は、空のボトルをゴミ箱に捨て、笑顔を繕った。
「おかえりなさい」
「どうした? 何があった?」
「何が、って?」
「カノンのほっぺた。ひどい腫れようじゃないか」
「ああ・・・」
「ああ、じゃない」
「ぶったのよ」
「ぶった? なんで?」
「この子が言うことをきかなかったから」
「言うことを、って・・・それにしても・・・」
正樹はカノンをダイニングテーブルのハイチェアに座らせた。
「強く当たりすぎじゃないか、実穂子」
「だって・・・」
実穂子は薄ら笑いを浮かべた。
正樹はその笑みを不快に感じた。
「あたしのカノンは、ほら、あそこにいる」
実穂子はリビングのテレビのほうを指さした。
正樹は実穂子が指し示したリビングをちらりと見た。
「実穂子、もうよしてくれないか」
正樹は呆れたように、テーブルを叩いた。
スマートフォンのメール着信を知らせるジングルが聴こえてきた。
実穂子は充電スタンドに立ててあるスマートフォンを手に取った。
発信者名は、”横浜ジーンセンター”であった。
実穂子は画面をタップしてメールを開いた。
“件名 検査結果”
”本文 99.99% 被験者Aと被験者BのDNAを比較検査した結果、両者が母子である確率は99.99% 一般的には母と娘の関係が認められます”
実穂子は高鳴る胸を押さえ、リビングにいるカノンを呼び寄せた。
「カノン、いらっしゃい」
カノンはヘッドフォンを外し、実穂子の元に駆け寄った。
カノンの頭を撫で、実穂子はカノンをダイニングの椅子に座らせた。
カノンを見る実穂子の笑みが止まらない。
「誰からだ?」
実穂子はスマートフォンをテーブルに置いて呟いた。
「要らない」
「えっ? 誰?」
実穂子は正樹に歩み寄った。
実穂子は正樹の傍らでハイチェアに掛けているカノンに向かって言い放った。
「あんたはカノンじゃない」
「ママ・・・」
カノンは絞りだすような声で言った。
「あの子がカノン。あんたはあの子と全然違う」
実穂子はなおも畳みかけた。
正樹は実穂子の言動が、いささかも理解できなかった。
正気を失ったとしか思えなかった。
「実穂子、どうした? 落ち着け」
「パパ、お願い。この子を警察に返してきて」
「バ、バカ言うな」
「警察にこの子を返して、家に帰ってきたら目の前にカノンがいるから」
「本気で言ってるのか、実穂子」
泣きだしそうになるカノン。
「そうなったらあんたは要らない子」
実穂子はカノンの肩を鷲掴みした。
「実穂子、カノンに触るな」
「いますぐ出ていきなさい。あんたは要らない・・・」
「いい加減にしろ」
カノンの肩を掴んで揺する実穂子の頬を、正樹は平手打ちした。
実穂子は態勢を崩し、椅子に倒れかかった。
正樹は涙目で怯えるカノンを、実穂子からを包み隠した。
実穂子は頬を押さえ、乱れた髪の隙間から正樹を睨みつけた。
カノンは正樹の手のなかで、声にならない泣き声をあげて泣いた。
実穂子はすくっと立ちあがると、カノンを抱いて階段を駆けあがった。
実穂子に手をあげたことを悔やみつつ、正樹は泣きじゃくるカノンを抱きあげてあやした。
「よしよし、泣けるよな。ママちょっとおかしいね。ママの言ったこと気にしなくていいぞ。そうだ、今夜はパパと寝ような」
バタンと2階から扉の閉まる音を正樹は聞いた。
「実穂子」
階上に向かって正樹が呼びかけたが、返事はなかった。


雲間に見え隠れする月の薄明が、誰もいない吉川宅の縁側に射しこむ。
誰しもが寝静まった深い夜に、囁くようなコオロギの鳴き声が風に運ばれた。
吉川宅の2階廊下の人感センサー付足元照明が反応した。
正樹の部屋では、正樹とカノンがひとつのベッドに並んで眠っている。
ベッドサイドのランプの豆電球の灯りで、カノンの寝顔がかろうじて見えた。
正樹は夏布団を抱いて熟睡していた。
正樹の寝室の扉の下から、廊下からの光が射しこむ。
扉の縁からも光が漏れ始め、その光はやがて正樹とカノンが眠るベッドに届いた。
”カノン”と呼ぶ声がした。
光を避けるようにカノンはベッドの上で身をよじらせた。
正樹は深い眠りに落ちている。
”カノン”
カノンは覚めやらぬなかで、その声に無意識に反応した。
目を閉じたままで、上体を起こしベッドの端に座った。
光が射すほうを向いて、ゆっくり目を慣らすように目を開けた。
光源を背にした人型のシルエットがぼんやりと見えた。
ナイトガウンを着た実穂子が、正樹の寝室の戸口に立っていた。
「カノン」
実穂子が小声でカノンを呼んだ。
「ママ・・・」
「カノン、おいで」
誘われるままにカノンはベッドから降りた。
そして寝起きの覚束ない足取りで実穂子に近づいた。
実穂子は、その場にしゃがんでカノンに向き合った。
「カノン、きょうはごめんね。ママを許してくれる?」
まだ半分夢のなかにいるカノンは、実穂子の言っていることが咀嚼できなかった。
ただ実穂子の優しい笑顔が目の前にあるという事実だけで、多幸感が溢れてきた。
「明日、お出かけしようか。カノンとふたりで」
カノンの眠い目に光が射した。
「好きなもの買ってあげる」
カノンの口角があがる。
「パパには内緒ね。いい?」
カノンは笑顔で首を縦に振った。
「わかったらベッドに戻りなさい。さあ早く」
後ろ髪を引かれる思いで、カノンはベッドに戻った。
ベッドに這いのぼり戸口のほうを見ると、扉が音もなく閉まるところだった。
それとともに正樹の寝室に流れこんでいた光は減衰した。
再び正樹の寝室は、豆球だけの薄闇に包まれた。


低い機械音を伴って、様々な衣類がドラム式洗濯機の中で踊るように渦巻いた。
実穂子は、縁側のガラス戸を覆う遮光カーテンを開け放った。