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さよなら、カノン【小説版】

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「ああ、そこは先生と相談して決めよう。それより、実穂子・・・」
「あたしは大丈夫よ。心配しないで、パパ」
「実穂子」
正樹はひと呼吸置いて続けた。
「話を聞いてくれる良い医者を知ってる。話をするだけでも気が楽になるから」
「医者だなんて・・・。あたし・・・」
実穂子は小さく首を振った。
「頼む」
正樹は重ねた手に力をこめた。
実穂子はカノンが寝ているソファをぼんやり眺めた。
自分の目の前で起きていることを処理するのが精一杯で、何が起きているのかを整理して理解する作業が追いつかなかった。
やはり心が病んでいるせいだろうか。
カノンが命を落としかけたのは、あたしの心の病のせい?
“母親失格”というワードがまた頭のなかに浮かんだ。
許されない。
世間が許しても、目の前にいる正樹はきっと許さない。
悔しい、悲しい、情けない。
自分が怖い。
渦巻く感情に、実穂子は押し潰されそうだった。
正樹は、何かに怯える実穂子の肩を優しく抱いた。


都心から離れた地方の駅は、ラッシュアワーの時間帯を過ぎると、潮が引いたように閑散とする。
ホームに到着する電車内もまた数えるほどの乗客数で、実穂子は空いた座席にカノンを自身の両側に座らせて乗車した。
ビロード素材のベンチシート席に座る乗客は、実穂子たちを含めても十人に満たなかった。
広々とした車両内で、初めのうちはそわそわしたり、はしゃいだりしていたカノンだが、途中の駅で上品な婦人が乗車してくると、その女性が発する独特な雰囲気に呑まれたのか、陶器人形のように固まってしまった。
その婦人は、細い金縁眼鏡をかけ羽根のついた帽子を被っていた。
プレタポルテと思われる奇抜なデザインのロングドレスを揺らしながら、カノンたちの対面の席に腰をおろした。
派手ないで立ちの婦人を、カノンは不思議そうな目で凝視した。
すると婦人も眼鏡の奥から、カノンを射るような目で見返した。
電車は山林や鉄橋をいくつか越え、戸建が点在する住宅地帯に入った。
低層の団地に混じっていくつかの高層マンションが見えてきた。
都心に近づくにつれ、途中駅からの乗客が増え、座席はほぼ埋まった。
林立するオフィスビル群を目前に、電車は緩やかなスロープを下り、地下へと潜った。
速度を落とした電車は、やがて都心のターミナル駅に到着した。
実穂子はカノンとカノンを引き連れて、十数台の自動改札機が出迎えるターミナル駅の改札を通り抜けた。
平日の昼間というのに、ターミナル駅周辺は行き交う人々で賑わっていた。
目に映るすべてがカノンには珍しく、興味を惹かれた。
だが立ち止まることなく、実穂子は地図アプリを開いたスマートフォンを片手に、目的地へと歩を進めた。
目的地は、ビルに挟まれたいわゆる雑居ビルだった。
ビルの袖看板にある”向坂メンタルクリニック”の文字と、正樹からもらったメモを照らし合わせ、ビルのエレベーターに乗りこんだ。
エレベーターが目的の階に停まり、ドアが開く。
実穂子はカノンたちを連れてエレベーターを降りた。
エレベーターホールと呼べるものはなく、短い通路を挟んですぐに大きな観音開きのガラス扉が開いていた。
向坂クリニックの名がガラス扉にレタリングされているのを確認して、実穂子は扉をくぐった。
入ってすぐのところに、長椅子が等間隔に十数台置かれていた。
ロビーとでも呼ぶべき、閉塞感のないすっきりした待合室だった。
正面には受付らしきカウンターがあった。
長椅子に、患者と思しき若い女性や壮年の男性が、距離をとって掛けていた。
待合室の隅には、原色の壁紙をあしらった区画がある。
親が診察を受ける間、子どもを遊ばせるプレイロットのようであった。
そこでは、カノンと同じ年頃の女児がひとりで玩具遊びをしていた。
実穂子は受付カウンターに進んだ。
カウンターには、容姿端麗と形容すべき若い事務員が待ち構えていた。
やや気後れしながら実穂子は申し出た。
「あの、電話で予約した吉川です」
受付事務員は手元のリストを確認し、上品な笑顔を見せた。
「吉川様、お待ちしておりました。お呼びしますので掛けてお待ちください」
実穂子とカノンは壁際の長椅子に腰掛けた。
立ったままのカノンはプレイロットに興味を示し、実穂子の袖を引っぱった。
「すぐだから待ってなさい」
もじもじしながらカノンは再び実穂子に催促した。
実穂子はしばらく考えて
「行ってもいいけど、静かにね・・・」
実穂子がそう言い終わる前に、カノンはプレイロットのほうへ駆けだした。
ラバー素材で囲まれたプレイロットの棚に、ソフトビニール製の玩具がいくつか陳列されていたが、カノンがもっとも興味を示したのは、幼稚園児が手に持って遊んでいるユニコーンのフィギュアだった。
「吉川様、面談室へどうぞ」
事務員が受付カウンターの前に歩みでて、左後方にある面談室のドアを少し開けた。
実穂子はカノンを連れて面談室に入った。
大きな窓と立派な観葉植物が目に飛びこんできた。
マホガニーのデスクの後ろに、銀髪を撫でつけた年配の男性がファイルに目を通していた。
年配の男性は顔をあげて実穂子に言った。
「吉川さん。吉川実穂子さんですね」
「はい」
「向坂です。どうぞお掛けになってください」
二人掛けの高級ソファに、実穂子とカノンは浅く掛けた。
向坂は席を離れてデスクの脇に立ち、デスクの上にファイルを置いた。
「吉川さんのご主人とは、私が産業医をしていた頃に何度かお会いしました」
「そうなんですか」
「そのご主人からお電話いただきまして、おおよそのお話はお伺いしました」
「はあ」
「お辛い思いをされたようで・・・」
「過去の話はいいんです」
面談室のドアの向こう側から女児の「返して」という声が、実穂子に聞こえた。
実穂子は一瞬、女児の声に気を奪われた。
「どうかされましたか」
「実は・・・」
と言って実穂子はカノンの頭に手を置いた。
「この子のほかに、もうひとり子どもがいるんです」
向坂は少し驚いた。
事前に聞いていた情報が間違っていたのか、と疑問に思った。 
「たしかお子様はおひとりだと聞いていますが」
「この子と姿も背丈もそっくりな、もうひとりのカノンが」
「もうひとりのカノン? いまそうおっしゃいました?」
向坂はファイルに視線を落としつつ、デスクの周りを半周して実穂子に言った。
「世の中には自分にそっくりな存在が別に、もうひとりはいるといわれています。その存在に不幸にして偶然出会ってしまうことを、超常現象の界隈では、ドッペルゲンガーなどと呼んでいます。医者の立場から言えば、それは幻視の一種として片が付くのですが・・・」
向坂は正鵠を射たとばかりに、したり顔で実穂子を見た。
しかし、実穂子は向坂の説をあっさり否定した。
「そういうのじゃないんです」
「・・・といいますと」
向坂は大仰に驚いてみせた。
実穂子は面談室のドアを開け放った。
向坂にプレイロットを見るよう促した。
プレイロットでは、幼稚園児とカノンがユニコーンフィギュアを取り合っていた。
「先生、子どもがいるの、見えるでしょ」
向坂は実穂子が指し示すプレイロットをじっくり眺めた。
「ええ、お嬢ちゃんがひとり・・・」
「ふたりいるでしょ」