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さよなら、カノン【小説版】

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正樹は車の窓から遠ざかる体育館をぼんやり眺めた。
新幹線に乗り換えた正樹は、窓際の席に座った。
新幹線は市街地を離れ、瞬く間に山間部のトンネルに入った。
車窓が闇に覆われた。
新幹線の窓ガラスに、正樹の開いたノートPCの画面が反射する。
誕生日に撮った4枚の写真がコラージュされた画像だった。
1歳から4歳までの成長の記録である。
どの写真にも、カノンの満面の笑みが映っていた。


スーパーキナリヤの駐車場の地面に、ケーキ屋の手提げ袋がドサッと落ちた。
助手席にドアが半開きになったサーブの車内は空っぽである。
座席の上には、幼稚園児の黄色い帽子。
ひきつった顔でカノンの名を呼ぶ実穂子。
視野を広げて、駐車している車の間を捜し回る。
駐車場の隅に、朱色の鳥居が建っているのが実穂子の目に入った。
鳥居の下にポツンとカノンが立っていた。
実穂子はカノンの名を呼びながらカノンに駆け寄った。
すると朱色の鳥居がトンネル状に幾重にも連なり、それとともにカノンが遠ざかっていく。
実穂子はカノンを追って、連なる鳥居のトンネルのなかを駆けた。
トンネル状の鳥居が途切れた先に、カノンが人形のように表情を消して立っていた。
カノンの背後には、黒い靄がうねるように立ちのぼっている。
トンネルを駆け抜けて、実穂子はカノンを抱きしめた。
しかし抱きしめた腕の中に、カノンはいなかった。
  ◇   ◇   ◇
”ママ〜”と呼ぶ声を聴こえた。
実穂子はその声をきっかけに、浴槽の中で目を覚ました。
風呂の湯が口元に迫るほど、ずり落ちた体勢になっていた。
バスルームの折り戸に子どもの影が映った。
「カノン?」
小声で呼びかけたが、影は一瞬にして消えた。
湯ぶねから出ようと、実穂子は腰を動かした。
だが下腹部に重みを感じて、容易に立ちあがない。
実穂子は胸元を見て驚いた。
胸の前の水面下に髪の毛が揺れていた。
実穂子の腕のなかでカノンが沈んでいた。
酔いがいっぺんに醒めた。
実穂子は慌てて腕を解き、カノンを水面下から救いあげた。
カノンの口の端から、風呂の水がこぼれてつたい落ちる。
カノンは、ぐったりと脱力して動かなかった。
実穂子は濡れた身体のまま、バスルームを出てカノンを脱衣室の床に寝かせた。
カノンの顔と胸に耳を近づけた。
鼓動もなく、息もしていない。
「大変」
実穂子はカノンの胸にタオルを被せ、その上から二本指を重ねて押した。
押しては少しインターバルを取る。
それを何度も繰り返したが、カノンが反応する気配は見られない。
実穂子はカノンの口から息を吹き入れた。
再び早いテンポでカノンの胸を押した。
しかしカノンの呼吸は戻らなかった。
その後もずっと実穂子はカノンの口に息を吹き入れたり、胸部圧迫を繰り返した。
カノンの胸を押す実穂子の額から汗が滴り落ちた。
「息をして。お願い」
カノンの胸を押す実穂子の指に力が入らなくなってきた。
実穂子はついにカノンの胸を押す手を止めた。
カノンは目を閉じたままピクリとも動かない。
実穂子は力なく脱衣室の床にへたりこんだ。
呆然と壁を見つめる。
宙を見つめて、“息をして”と呟いた。
何をしても動かないカノンを見て憎らしく思えてきた。
“母親の責任”や“母親失格”の貼り紙が思い起こされて涙目になった。
「息をしなさい、カノン」
命令口調でそう言いつつ、実穂子は組んだ両手をカノンの胸めがけてを振りおろした。
カノンの身体が弾んだと同時に、カノンの口から多量の水が噴きあがった。
ゴホゴホとむせながら、口から水を吐きだす。
四つん這いになって、カノンは口中に残る水を吐きだした。
実穂子は苦しそうに息をするカノンの背中をさすった。
◇   ◇   ◇
「ただいま」
玄関ドアの鍵を回す音とともに正樹が帰ってきた。
日付が変わった深夜、もう実穂子は眠っているだろうと返事は期待していなかった。
室内はキッチンの小さな手元照明だけが灯っていた。
ダイニングテーブルに実穂子が突っ伏していた。
「帰ったよ」
囁くような声で正樹が言った。
その声で実穂子は正樹の帰宅に気がついた。
「あ、パパおかえりなさい」
「実穂子、待っててくれたのか」
「ええ」
生返事だった。
実穂子はバスローブのままで髪は濡れたままだった。
「はい、お土産」
ダイニングの照明をつけ、正樹はテーブルの上に高級菓子店の紙袋を置いた。
普段とは様子が違う実穂子に、正樹は
「どうかしたのか、実穂子」
と尋ねた。
実穂子は正樹の問いを聞き流して言った。
実穂子 「パパ、悪いんだけど、あたしの部屋に行ってナイトガウン取ってきてくださらないかしら?」
「ああ」
小首を傾げて正樹は階段をあがった。
階段の途中で正樹は、リビングのソファで眠るカノンに気づいた。
「おい実穂子、どうしてカノン、ソファで寝てるんだ?」
「ちょっと湯あたりして、休ませてるの」
「そうか・・・」
正樹はガウンを持って階下に降りてきた。
「ねえ、あたしの部屋に誰かいた?」
「えっ?」
「ベッドの上に」
「い、いや、誰も」
「・・・そう・・・」
実穂子はそっと俯いた。
「なんでそんなおかしなこと訊くんだ?」
正樹はガウンを実穂子に手渡した。
「それより喜べ。明日から暫く出張はなしだ。定時に帰れる。社長に掛け合った」
ガウンを羽織りながら、実穂子は呟くように言った。
「見えないのね、パパも」
正樹はリビングのカノンに寄り添っていて、実穂子の声が聴こえなかった。
「どうして見えないの? なんで?」
「えっ? 何だって?」
「まーくんには見えていてほしかった」
まーくんとは、結婚前に付き合っていた頃の正樹の愛称。
久しぶりに愛称で呼ばれて、正樹はギグっとした。
「何の話だ?」
「あたしが見ているものと同じものをあなたには、あなたにだけは見えていてほしかった」
「見えるとか見えないとか、さっぱりわからない。カノンはここにいるじゃないか」
「・・・そうね。あたしが、どうかしてるの・・・」
「実穂子、何があった? 話してくれ」
正樹は実穂子の傍に近寄った。
「あたしね・・・あの子を死なせるところだったの」
「えっ?」
正樹は驚愕した。
◇   ◇   ◇
実穂子はバスルームで起きた事の顛末を正樹に話した。
正樹は立ったまま、実穂子の話を聞いた。
ソファで横になっているカノンの寝息を確かめると、正樹は実穂子と横並びになるように椅子に掛けた。
「実穂子、きみもカノンも僕の大切な家族だ」
「あたしだってカノンのためなら・・・」
「僕は家族のことが一番と思って毎日がんばって働いてる。良い父親ではないかもしれない、良い夫ではないかもしれない。でもがんばっているんだ」
「うん、わかってる。感謝してる」
実穂子は麦茶を飲み干した。
コップをテーブルに置いた実穂子の手に、正樹が手を重ねた。
「実穂子、きみのことが心配なんだよ」
「あたし、どうしたらいいのか、わからなくて」
「少し休んだほうがいい」
「休んでなんかいられない。カノンが早く小学校に通えるようにしないと」
「カノンならきっと大丈夫。焦る必要はない」
「でも・・・。幼稚園のお友達はもう2年生に・・・」