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さよなら、カノン【小説版】

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福住との最後のやりとりを思い返して実穂子は呟いた。
「そうですね。カノンのことだけ」


キッチンのすりガラスの小窓が薄暮色に染まっている。
シンクに積まれた大小複数の皿に、蛇口から水滴が落ちる。
ヘアドライヤーが音をたてて勢いよく風を送る。
カノンの髪がドライヤーの風を受け、しなやかに靡いた。
脱衣室で実穂子は、カノンの髪をドライヤーで乾かしていた。
カノンはキャッキャと言いながら乾いた髪を振り乱した。
実穂子は最後に手櫛でカノンの髪をかきあげた。
「カノン、きょうはよく頑張ったね」
「ママがいっぱい教えてくれたから」
「早くみんなに追いつかないとね」
カノンは脱衣室で寝間着に着替えた。
「はい。きれいになりました」
長い髪を両側に分けたカノンは、実穂子に催促の笑顔を見せた。
実穂子はすぐに察した。
「いいよ。冷蔵庫にアイスあるから」
カノンは脱衣室からキッチンへ駆けて行った。
バスローブをまとった実穂子も、濡れた髪をタオルで拭いながら脱衣室を出た。
カノンはハイチェアに座ってカップのアイスを食べていた。
そんなカノンを微笑ましく見ながら、実穂子は冷蔵庫から缶ビールを取りだした。
カノンの対面に座り、グラスにビールを注いだ。
顎をあげてビールを注ぎ流しこむように飲むと、実穂子はカノンに尋ねた。
「美味しい?」
「うん」
グラスを片手に、実穂子はリビングに向かった。
ソファの上に転がっているテレビのリモコンに手を伸ばしたとき、縁側のほうからペタペタという足音が聴こえた。
縁側のカーテン越しに、小さな人影が小走りで動く。
実穂子は、むせて口中のビールを噴きこぼした。
実穂子は口を手で拭いながらキッチンを振り返り、カノンに言った。
「食べ終わったら2階にあがりなさい」
「ママは?」
「すぐに行くから」
カノンが階段を一歩ずつのぼり、2階に消えるのを待って、実穂子は縁側のカーテンを開けた。
汗と土くれにまみれて、ぼさぼさになった髪のカノンが、実穂子を見てニッと笑った。
「ママ」
「ママと呼ばないで。ママじゃないから」
「えー、だって・・・。ママ、お風呂入りたい」
「もう、この子ったら」
「カノン、ママと一緒にお風呂入りたい」
「あたしはもう入った。そんなに入りたかったらひとりで入りなさい」
「えーー」
カノンは頬を膨らませ、口をとがらせて不満を表現した。
しぶしぶ縁側から室内に入ろうと、カノンはガラス戸を細く開いた。
そのカノンの素足には、泥や草の切れ端がへばりついていた。
実穂子はカノンの足を見て即座にガラス戸を押さえた。
「ダメ。足をきれいにしてから」
◇   ◇   ◇
ウエットティッシュで足をきれいにしたカノンは、トコトコと歩いて脱衣室に向かった。
カノンは脱衣室の手前に実穂子のほうを振り返った。
「ねえママ、一緒に入ろうよ」
実穂子はカノンにかまうことなく、冷蔵庫から2本目の缶ビールを取りだした。
カノンは諦めてひとり脱衣室に入っていった。
実穂子は缶ビールを手に持ったまま、階段をのぼった。
階段の途中で一瞬よろけそうになり、背筋を伸ばした。
実穂子は自室の寝室を覗いた。
ベッドの上でぬいぐるみを抱いてカノンが横になっていた。
目を閉じて眠っているようだった。
カノンの寝顔を認めて、実穂子は階段を降りた。
脱衣室のすりガラス越しに、小さな影が揺れ動いていた。
実穂子は脱衣室の戸を開けた。
カノンは服を着たまま脱衣室に置いてあったソフトビニール製のアヒルのおもちゃで無邪気に遊んでいた。
「早く入りなさい」
実穂子は語気を強めた。
カノンはアヒルに話しかけて、服を脱ぎ始めた。
実穂子は脱衣室の戸を閉めると、ダイニングの椅子に腰をおろした。
テーブルに缶ビールを置き、シンクに残った洗い物を見て溜息をついた。
バスルームの浴槽には湯がたっぷり張られていた。
カノンは湯ぶねに入らず、しばらくバスタブの脇でアヒルに話しかけて遊んだ。
アヒルに飽きるとカノンは、ボディソープのノズルヘッドを何度も押して、泡の玉を作り始めた。
カノンの足元に白い泡がこんもりとした球状に盛りあがった。
初めは形状を保っていた泡も、バスルームに充満する湿気ですぐに崩れはじめる。
それでもカノンはボディソープから泡を出し続け、何かより大きな形のものを作ろうと試みた。
だが思うようにいかず、最後は両手を振り回して泡の山を粉砕した。
白い泡はバスルームの至るところに飛び散った。
バスタブや湯ぶねにも泡が飛び散り、カノン自身も泡まみれになった。
白い泡が漂う水面に、カノンはアヒルを拾って浮かべた。
突然、バスルームのプラスティックの折り戸が全開になった。
実穂子が立っていた。
全裸だった。
「ママ〜」
カノンは実穂子を見て歓喜した。
実穂子はバスルームが泡だらけになっているのを見てげんなりした。
カノンをバスチェアに座らせると、頭からシャンプーをたっぷり垂らした。
カノンの頭髪をゴシゴシこすり、十分に泡だった頭とすでに泡だらけの身体をシャワーで洗い流した。
そしてそのままカノンを抱きかかえ湯ぶねにつかった。
バスタブの湯がザーと一気に溢れだす。
湯とともに流れだしたアヒルがバスルームの洗い場の上でプカプカと泳いだ。
浴槽の中からアヒルを取ろうと、カノンは身を乗りだした。
アヒルに手を伸ばそうとするカノンを、実穂子は無理やり引き寄せた。
「じっとしてなさい」
実穂子はカノンを胸の前に抱いた。
「ああ、疲れた」
そう呟くと実穂子は、湯のなかに身を沈めたまま目を閉じた。


「吉川さん、きょうはどうも・・・」
暗がりの駐車場で正樹にそう言ったのは、短髪に白いものが混じった50歳がらみの男だった。
「初陣おめでとうございます、監督」
正樹は機材を積んだ台車を押す手を止めて、男に言った。
スカイブルーのジャージを着た男は、社会人女子バスケットボールチームの監督であった。
「いやぁ北海道に嫁いだ元メンバーから電話がありましてね。試合見たよって。うちみたいな弱小チームの試合を中継していただいてありがとうございます」
「弱小だなんて、そんな。とにかく素晴らしい試合でした。こちらこそありがとうございます」
正樹は宮田が待つハイエースまで台車を押した。
正樹の背中越しに監督は話を続けた。
「それで吉川さん、このあと祝勝会をするのですが、よかったら吉川さんたちにもご参加していただけないかと、彼女たちが」
監督の視線の先に、体育館の白壁を背にした女性が十数名並んで立っていた。
皆、監督と同じ色のジャージを着ていた。
戦い終えた清々しい選手たちの表情が、正樹には眩しかった。
「ありがとうございます。ただきょうはちょっと・・・。お気持ちだけ」
正樹は台車を宮田に受け渡すと、監督に断りを入れた。
「そうですか。残念です。では、次の機会に」
監督は正樹に頭をさげ、バスケチームの選手たちが待つ輪の中に戻っていった。
機材をおおよそ車に積み終えた宮田が正樹に言った。
「あとはやっときます、チーフ」
「すみません」
「奥さんによろしく。それとカノンちゃんにも」
正樹は笑顔で頷いた。
宮田と別れて体育館の玄関から正樹はタクシーに乗った。