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さよなら、カノン【小説版】

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それからカノンの額の冷却シートを貼りかえ、胸元までずり落ちたタオルケットを優しく掛け直した。


縁側のカーテンの隙間から射しこむ朝陽のぬくもりに、実穂子は目を覚ました。
ソファにもたれかかって、いつの間にか寝入ってしまっていた。
「ママ〜」
と2階から声がした。
階段の上にパジャマ姿のカノンが立っていた。
髪はぼさぼさで寝ぼけ顔だ。
実穂子はソファの上に手を伸ばした。
タオルケットの端が手に触れた。
あらためてソファの上を見る。
タオルケットがしわになって置いてあるだけで、ソファにカノンはいなかった
階段を降りてきたカノンに実穂子が言った。
「起きちゃったの、カノン?」
タオルケットを畳みながら、実穂子は自分に言いきかせた。
もうひとりのカノンなんていない。
昨日のことは夢まぼろし。
「うん」
とカノンは眠たい目をこすった。
「まだ寝てていいんだよ」
「カノン、起きちゃった」
「そう。じゃあ朝ごはんにしようか」
「うん」
実穂子が立ちあがろうとすると、玄関の外でもの音が聴こえてきた。
恐る恐る玄関に近づき、実穂子はドアを少し開けて外を覗いた。
放置された犬小屋のほうで、ごぞごぞと動く影が見えた。
上半身は犬小屋に隠れているが、腰から下が露わになっている。
カノンが腹ばいで細い両足をばたつかせている。
夢まぼろしではなかった・・・。
実穂子は胸の底に重たいものを感じた。
実穂子は玄関ドアを閉めた。
カノンが首を傾げて実穂子に問う。
「お外に誰かいるの? ママ」
「ううん、誰もいないよ」
実穂子は冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを一本取りだした。
玄関ドアを少し開き、ペットボトルをドアの外に置く。
実穂子の動きを察したのか、カノンは後ずさりし犬小屋を脱し、玄関に顔を向けた。
「ママぁ、シロがいないよ。シロはどこぉ?」
実穂子はカノンを無視しようとした。
それでも聞こえてくるカノンの声に実穂子は卒倒しそうになった。


ダイニングテーブルの上に小学1年生のドリルが積まれていた。
カノンは鉛筆を手にドリルの問題に挑んでいた。
カノンの隣に座り、実穂子はカノンに文字の書き方や意味を教えた。
玄関の外から時折、”ママ〜”と呼ぶ声が実穂子の耳に届いた。
勉強中のカノンには聴こえていないようだった。
実穂子は努めて戸外からの声を無視した。
不意に玄関チャイムが鳴った。
インターホンの小さな画面に目をやると、肩まである髪を後ろになでつけた福住の顔が映った。
福住の来訪を待っていた実穂子は、勇んで玄関ドアを開けた。
すると福住の第一声より先に、カノンの元気な声が飛びこんできた。
実穂子は顔をしかめた。
実穂子の唐突な表情の変化に、福住は出鼻をくじかれた。
「どうかされました?」
前庭では片方しかなくなったブランコのロープに、カノンがしがみついて遊んでいた。
ブランコ本体がぎしぎしと音をたてて軋んだ。
「いいえ。きょうはわざわざお呼び立てして」
「カノンちゃん、いかがですか」
「それが・・・。福住さん、とにかくわけがわからなくて」
「わけが?」
「ほら、壊れたブランコ」
「ブランコ?」
「あ、いま、犬小屋のほうに」
犬小屋に接するようにセーラームーンの三輪車が置いてあった。
三輪車を踏み台にしてカノンが犬小屋の屋根に登ろうとしていた。
「犬小屋?」
福住は理解に苦しんだ。
実穂子は思わず犬小屋に向かって叫んだ。
「危ないからやめなさい」
福住は呆気にとられた。
「とにかくやんちゃで・・・」
「やんちゃ? そうなんですか。そうは見えませんけど」
「あたしには手が負えません。連れて帰ってもらえませんか、あの子」
「あの子? というと」
「自分はカノンだと思ってるあの子です」
実穂子の制止を聞かず犬小屋の屋根に登りつめたカノンは、シロの名を呼び続けた。
「カノンちゃん? 見たところお家の中でお勉強してらっしゃる。あれ、カノンちゃんですよね」
実穂子は(ダイニングを振り返った。
「あの、福住さん。あのカノンは見えるんですか」
「ええ、まあ・・・」
実穂子の不思議な問いに、福住は怪訝そうに答える。
「カノン」
実穂子は勉強中のカノンを呼び寄せた。
「カノン、お前を一生懸命探してくれた警察のお姉さん。ご挨拶なさい」
「こんにちは」
カノンはそう言うと恥ずかしそうにすぐ実穂子の背後に隠れた。
「まあ、お利口さま」
「もういいよ、カノン。お勉強の続きを」
ダイニングテーブルに就き、カノンはドリルを再開した。
福住はそんなカノンの様子を見て安心した。
「よかったです、とにかく。お子様が戻られて」
「それはとっても。警察の方々には感謝しています。ですが、あたしが言いたいのは主人が警察から連れ帰ってきた子」
「えっ? カノンちゃんでしょ」
「庭で遊んでいる。ほらいま犬小屋から降りようとしている」
実穂子に促されて、福住は庭を見回した。
ロープが片方切れたブランコ。
打ち捨てられた犬小屋。
柿の木の横に、錆が目立つスチールの物置小屋。
そここに雑草が生い茂っている庭には、人影ひとつ、福住には見えなかった。
福住は真顔で実穂子に言った。
「誰もいませんけど」
「見えるでしょ。カノンと瓜二つの子が」
「実穂子さん・・・」
「しっかり見て。ほらまたブランコで・・・」
「ごめんなさい。私には・・・」
福住は申し訳なさそうに太い眉尻をさげた。
「なんで見えないんですか」
実穂子は声を張りあげた。
ヒステリックになる実穂子を、福住はただ心配するしかなかった。
「吉川さん・・・」
「いるでしょ。なんで見えないんですか」
さらに感情が昂じて、実穂子の声が涙声になった。
福住は落ち着いたトーンで実穂子に語りかけた。
「見えてますよ、カノンちゃん。ちゃんと」
「だから、そうじゃなくて・・・」
息が詰まり、実穂子は言葉が継げなかった。
福住は
「実穂子さん」
と声をかけて、実穂子が冷静さを取り戻すのを待った。
実穂子は、これ以上福住に何を言っても無駄であることを悟った。
見えないのだ。
カノンの父親である正樹ですら見えない。
そして昨日、正樹が言った言葉を思いだした。
“疲れてるんだ、きっと。いろいろあったから”
福住もきっと自分をそんな目で見ているのだろう、と実穂子は思った。
「わかってます。あたしは疲れている。あたしは疲れきっている」
投げやりな言い方だった。
あたしだけが見えるカノン。
なぜ?
誰がその答えを知っているだろう。
あたしの頭がおかしくなったというのがその答えならば、甘んじて受け入れよう。
でもあたしの現実世界には、ふたりいるのだ。
手のかかる子どもが、ふたり。
福住は太い眉頭を寄せ困った顔で実穂子に寄り添っていた。
生真面目で真っ正直な福住の顔を見て、実穂子は冷静さを取り繕った。
「ごめんない。こんな玄関で。どうぞおあがりください」
「いえ、きょうはここで失礼します。実穂子さん、いまはカノンちゃんのことだけ考えましょう」
福住は制帽を被り直して吉川宅玄関を後にした。
福住の視界の隅で、片方しかないブランコのロープが揺れていた。
実穂子は玄関ドアを閉めた。
ダイニングテーブルでドリルに取り組むカノンを、実穂子は見つめた。