さよなら、カノン【小説版】
オーダーの皿が店員によって運ばれてきた。
キャラメルソースのかかったプリンアラモードを前に、カノンの表情が一変した。
バナナ、マンゴー、キウイなどのトロピカルフルーツの横にホイップクリームが添えられていた。
カノンはニコニコ顔で、プリンを器用にスプーンで掬って自分の口に運んだ。
実穂子はアイスティーをストローでひと口吸った。
ホイップクリームを口の端につけたカノンは、輪切りのなったキウイをスプーンに載せようとしていた。
が、キウイが大きいのかスプーンが小さいのか、うまく載らない。
うまく載ったと思ったら、途中で落とす。
実穂子は自分の前に置かれたイチゴショートケーキのてっぺんのイチゴをナイフで小さく切って、カノンの皿に載せた。
ホイップクリームと一緒にイチゴを食べたカノンは、一気にテンションがあがった。
キウイも小さく切って、と実穂子にせがむ。
実穂子はカノンがプリンアラモードと格闘するのを愛おしく見つめた。
西の空を染めるオレンジの残照が、吉川宅の瓦屋根に照りかえる。
カノンを先に降ろした実穂子は、車を吉川宅の駐車スペースに停めた。
数個の買い物袋を車から降ろし、荷物でふさがった手をやりくりして玄関ドアを開けた。
おもちゃで膨らんだリュックを背に、足早に靴を脱ぐカノンに実穂子が言った。
「ママのお部屋に行ってお洋服着替えなさい」
「はい」
勢いよくカノンは階段を駆けあがった。
実穂子が複数の買い物袋を床に置き靴を脱ごうとしたとき、物置小屋のほうで物音がした。
ドン、と低く短い音。
何の音だろう。
次の瞬間、実穂子はハッとした。
車に乗って出かける前に、カノンを物置小屋に閉じこめた。
当初は憶えていたが、高速を降りたあたりからすっかりそのことを失念していた。
もっと早くに帰る予定であったことは言い訳にならない。
きょうは天気もよく、汗ばむほどの陽気だった。
炎天下の物置小屋に、飲料も食料もなく半日。
大人だったら体力的になんとか持ちこたえられるだろうが、年端のいかない子どもに耐えられるか。
実穂子は物置小屋に駆け寄ってロックを、“開”のほうに動かした。
戸を開けると、カノンの細い足が見えた。
さらに目を凝らす。
カノンは三輪車にもたれかかってぐったりとしていた。
不意にもたらされた外光にカノンは薄目を開いた。
逆光を背にぼんやりとした人のシルエットをカノンは見てとった。
「ママ・・・」
うわ言のようにカノンが呟いた。
意識が繋がっていることに、実穂子は少し安堵した。
しかし唇は動くものの、カノンの身体のほうはピクリとも動かない。
微かに聞こえた”ママ“という言葉。
誰のことを指して言っているのか、疑問に思ったが、考えている余裕はない。
緊急を要することに頭を働かせねば。
実穂子はカノンの背中に手を回した。
その手にかなりの熱感が伝わった。
見た目以上に状況は深刻かもしれない。
実穂子は、カノンの額に手をあてた。
「熱い」
カノンを抱きあげると、実穂子は速足で家に戻り、カノンをリビングのソファに寝かせた。
キッチンの蛇口をひねって子ども用のコップに冷水を注ぎ、カノンの口に含ませる。
冷水のほとんどはカノンの口の端から流れ落ちた。
水分の補給と並行して実穂子は救急箱から冷却シートを数枚取りだし、カノンの額に貼った。
首振り扇風機の風向きをソファの方向に固定する。
思いつく限りの応急処置を施し、なお救急車を呼ぶべきか迷っていると、ようやく意識を取り戻したカノンが口を開いた。
絞りだすようなか細い声だった。
それは声があまりに小さすぎて、何を言ったのか実穂子には聞き取れなかった。
実穂子が傍に来るのを待って、カノンはもう一度言った。
「ママ、ごめんなさい」
かろうじて聞き取れた。
だが実穂子は無視した。
うなされて夢でも見ているのだろうと聞き流した。
「喋らなくていい」
実穂子はカノンが「ママ」と口走るのを聞きたくなかった。
それでもカノンは繰り返した。
「ママ、ごめんなさい」
頬に赤みが残るカノンが、涙まじりの声で実穂子に訴える。
その訴えは、おもちゃを壊したなどという軽いものに思えなかった。
聞いてやるべきだろうと思い、実穂子はカノンに向き合った。
「何がごめんなさいなの?」
「カノン、ママの言いつけ守らなかった」
「言いつけって?」
カノンの口から思いがけない答えが返ってきた。
「カノン、勝手に車からでちゃった」
カノンが行方不明になった日の出来事が、実穂子の脳裏に蘇った。
「・・・2年も前のこと・・・」
独り言のように実穂子が呟く。
カノンなおもか細い声で
「勝手に車から降りちゃったの。ママごめんなさい」
と続けたが、やがてその声がかすれて途切れた。
カノンはすっと目を閉じた。
実穂子はカノンの顔を見つめた。
カノンに非はない。
カノンを車に置き去りにしてしまったのは、あたし。
それなのにこの子は、あの日の出来事を悔いている。
2年経ったいまも自分を責めている・・・。
実穂子はハッと我に帰った。
目の前にいる子どもをカノンだと思いこんでしまっている自分を客観視した。
実穂子は階段を駆けあがって、自室の扉を開けた。
フリルのついた洋服が、ベッドの上に脱ぎ散らかされていた。
その洋服の狭間に、下着姿のままのカノンが寝落ちしていた。
履いたままの靴下をそっと脱がせて、実穂子は夏布団をカノンの腰まで被せた。
久しぶりの外出で疲れてしまったのだろう。
カノンは深い眠りに落ちた。
実穂子はカノンの寝顔を見て安堵のため息をついた。
カノンの汚れた靴下を持って実穂子は階段を降りた。
階段の途中からリビングのソファが見える。
カノンが眠っている。
あの子はカノンに似た誰か。
そうであるに違いない。
階段を降りた実穂子は靴下を脱衣室の洗濯かごに入れると、キッチンに向かった。
そしてトースター横の充電スタンドに立ててあるスマートフォンを手に取った。
電話帳リストから福住を選択し、発信ボタンを押す。
電話が福住に繋がった。
「福住さん?」
そう言った実穂子の第一声がいつもより上ずった。
違和感を隠すため、実穂子はひとつ咳払いをした。
違和感を感じとれなかった福住は、いつも通りの応対だった。
「吉川さん。あ、カノンちゃん元気にされてますか」
「カノンは元気です。でも・・・」
「どうかしました?」
「あの、お話ししたいことが・・・」
「何でも仰ってください。聞きますよ」
実穂子は身の回りで起きていることを福住に相談するべく電話をかけた。
だがいざ話すとなると、何から話していいのかまとまりがつかなかった。
「あの、電話ではうまく・・・」
「そ、そうですよね」
そのとき初めて福住は、実穂子の穏やかならぬ空気を読みとった。
「では伺います、明日にでも」
「すみません。よろしくお願いします」
通話が終えて実穂子はスマートフォンを充電スタンドに戻した。
言葉で伝えようとすると必ず誤解が生じる。
現状を見てもらうのが一番だ。
福住の来訪の約束を取りつけて、実穂子の不安定な情緒が幾分落ち着いた。
実穂子はリビングに行き、ソファで目を閉じて眠りについているカノンをしばらく見つめた。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん