さよなら、カノン【小説版】
カーテンの隙間からそっと覗くと、縁側にカノンが座っていた。
二枚のアルマイトの皿を打ち鳴らしながら、シロの名前を呼んでいた。
アルマイトの皿はかつて飼っていたシロが水を飲むためのものだった。
実穂子はカーテンを閉じて天井を見あげた。
”カノンじゃない、カノンじゃない、あれは他所の子、あれは他所の子”
声にならない言葉を、呪文のように唱えた。
実穂子は、意を決したように大股で縁側を離れてキッチンに向かった。
ホットケーキを口に頬張るカノンの前から皿を片づけた。
カノンは食事を中断されて戸惑った。
「カノン、いまからママとお出かけしようか」
思いがけない実穂子からの提案だった。
だがすぐに「うん」と答えたカノンの表情に明るさが満ちた。
◇ ◇ ◇
カノンはフリルのついた可愛らしい洋服に着替えさせられた。
上機嫌でおしゃれなカンカン帽を被っている。
「お帽子はお外に出たときに被ろうね」
実穂子はカノンの頭から帽子を取り、テーブルの上に置いた。
「カノン、ちょっと待ってて」
実穂子は玄関から庭先に出た。
縁側にカノンがいた。
サマーニットと麻のパンツスタイル姿の実穂子は、縁側のカノンの前に立った。
「ママ〜」
とカノンが腰を浮かせる。
実穂子はすぐさましゃがんでカノンと目線を合わせた。
不審者を見るような目で、カノンを見つめた。
「あなたは誰?」
「カノンだよ。よしかわカノン」
「嘘おっしゃい!」
実穂子は声を荒らげた。
カノンはたじろいで、瞼を瞬かせた。
「何が目的? 誰かに言われてやってるんでしょ?」
「わかんないよ。なんでそんなこと言うの、ママ」
「ママはこれからお出かけするから」
お出かけと聞いてカノンは喜んだ。
「やったー!お出かけ。お出かけ」
「あんたは行かない」
「ええっ?」
「あんたは・・・」
「カノンはお留守番?」
「お留守番もさせない」
実穂子はカノンを抱きあげると、物を扱うかのようにカノンを脇に抱えた。
カノンを抱えたまま、実穂子は前庭を横切り物置小屋の戸を開けた。
物置小屋は薄暗く、埃の匂いがした。
園芸用具や清掃道具に混じって、かつてカノンが遊んだ玩具類が乱雑に押しこまれていた。
実穂子はその物置小屋にカノンを放りこんだ。
物置小屋の戸が閉まり小屋の中は真っ暗になった。
「あたしが帰るまでそこにいなさい」
実穂子は小屋の戸のフックを降ろし、ロックをかけた。
暗闇のなかでカノンは不安と恐怖に駆られた。
這いつくばった状態から立ちあがり
「ママ〜」
と力ない声で呟いた。
カノンの呟きはやがて泣き声に変わった。
物置小屋の前にしばし立ち尽くした実穂子は、カノンを物置小屋に閉じこめたまま、家のなかに戻った。
リビングではカノンが姿見に向かって、身なりを整えていた。
肩からかけた丸い水筒の位置が決まらないようだった。
そんなカノンを見て、母親の眼差しを実穂子は取り戻した。
「カノン。お帽子持って」
カノンはダイニングテーブルの上のカンカン帽を背伸びして手繰り寄せた。
「カノン、おいで」
カンカン帽を持ったカノンは、玄関先でしゃがんで待つ実穂子の首に抱きついた。
真っ青な空の下、水平線の向こうから大きな白い積乱雲が盛りあがっている。
その積乱雲まで達するかのように伸びた高速道路を、黄色いサーブが疾走した。
実穂子の隣でカノンは上機嫌の様子だった。
スムーズに流れる高速道路を、実穂子は気分よく運転した。
暗闇と思われた物置小屋だが、小さなスリットから微かに光が射しており、目が慣れてくるとカノンは小屋のなかに、いくつか見慣れたものを見つけた。
微かな光を受けて闇のなかにキリンの頭部が浮かんだ。
キリンの頭部はホッピングの一部だ。
すっかり埃を被っていた。
黒いグリップはセーラームーンの三輪車のハンドルだ。
恐怖と不安が薄れたカノンは、小屋のなかを探索し始めた。
高速道路を降りたサーブは、しばらく市街地を走った。
団地の一群を抜けて、閑静な住宅が建ち並ぶ一角にその建物はあった。
ゲートを通り、ゆとりのある広めの駐車場にサーブは停まった。
カノンを連れて車から降りた実穂子は、瀟洒なデザインの玄関に掲げられた銘板を見た。
”横浜ジーンセンター”
自動ドアをくぐると天井の高いロビーの中央に受付があった。
受付の事務員の案内で実穂子とカノンは検査室に通された。
検査室には年配の医師と看護師がいた。
「ではDNAの採取をします」
実穂子がサマーニットを脱ごうとするのを看護師が押し留めた。
「脱がなくても大丈夫ですよ」
実穂子が疑問に思っていると、看護師が
「口のなかから粘液と、指先から少量の血液を採取します。だからそのままで大丈夫」
と言って、検査キットをサイドテーブルの上に開いた。
「まずはカノンちゃんから。お口を開けてくれるかな」
看護師は綿棒でカノンの口内の粘液を拭い取った。
その綿棒をガラスの小瓶に入れて封印した看護師は、次に検査キットの中から銀色の小さな円柱を取りだした。
「指を出して。ちょっとチクってするよ」
カノンは看護師に手を開いて差しだした。
目をギュッと瞑って顔を背けた。
銀の円柱から突きでた細い針が、カノンの指先の皮膚を貫いた、
◇ ◇ ◇
横浜ジーンセンターのロビーの長椅子に、検査を終えたカノンが座っていた。
カノンの右手人差し指の先に小さな絆創膏が貼ってある。
その人差し指に実穂子は自分の右手人差し指を近づけた。
実穂子の指にも絆創膏が貼ってある。
「カノン、よく頑張ったね」
カノンは得意げに顎を突きだした。
実穂子とカノンが並んで座っていると、受付にいた事務員が歩み寄ってきた。
事務員は薄い封筒を差しだした。
「こちら本日の検査費の領収証になります」
実穂子は立ちあがって封筒を受け取った。
事務員が続けた。
「それから検査結果は2,3日うちにメールでお知らせすることになっています。そちらは簡易版で、正式な結果は後日の郵送になります・・・」
ロープウェイのゴンドラがランドマークタワーを横切る。
スイートピーが咲く芝生広場を、カンカン帽を被ったカノンと実穂子が手を繋いで歩いた。
大桟橋のデッキに立ったカノンは、海上を行き交う観光船や屋形船の乗客に手を振る。
港湾が一望できるオープンデッキのカフェの入口で、カノンと実穂子がメニューを眺める。
「カノン、好きなもの食べていいわよ」
生クリームやカットフルーツで飾られたたくさんのスイーツの写真を見て、カノンはどれにしようか迷った。
店内に入ると、カノンと実穂子は海が見渡せる大きなガラス窓の席に案内された。
西に傾きかけた太陽の日差しが、東京湾の海面にラキラと照り輝いていた。
オーダーしたものが運ばれてくるのを待つ間に、実穂子はカノンに尋ねた。
「カノン、ママとはぐれたこと憶えてる?」
「うん」
「誰か知らない人に声かけられた?」
「ううん」
カノンは首を横に振った。
「痛いこととかされなかった?」
「うん」
「それで、どうしたの?」
「わかんない」
「わかんないことないでしょ」
「わかんないの」
カノンは急に泣きそうな顔になった。
「ごめん、ごめん。思いださせちゃったのね。ほら、きたよ」
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん