さよなら、カノン【小説版】
リビングルームに人の気配を感じなかった。
「何が?」
正樹は率直な疑問を口にした。
「いるじゃない、カノンが」
「どこに?」
実穂子に見えているものが、正樹には見えていなかった。
実穂子は正樹をさらに家の中に引きこもうと、正樹の腕をつかんだ。
正樹は実穂子の手を振り払い
「いい加減にしてくれよ」
正樹は門扉を背にして、拗ねたように佇むカノンを指さした。
「カノンなら、家の外にいる。僕が連れてきた」
カノンは目を潤ませ、今にも大泣きしそうだった。
正樹はカノンに“おいで”と手招きして玄関先に呼び寄せた。
カノンは泣き出すのを堪えつつ、ゆっくりと玄関の前にやってきた。
実穂子はあらためて少女カノンを観察した。
浅葉幼稚園の体操着を着て水色の半ズボンを履いている。
背丈、髪の長さ、顔立ち。
すべてがカノンそのものに見えた。
しかし実穂子は正樹に対して
「この子はカノンじゃない」
と強い口調で否定した。
そう言いながら実穂子のなかでは、カノンかもしれないという直感と、カノンであるはずがないと理性がせめぎ合った。
そんな実穂子に正樹は呆れ顔だ。
実穂子はリビングのほうを振り返った。
ソファのひじ掛けから愛らしいカノンが顔を出す。
実穂子は、ふたりのカノンが同時に見えることに気が動転した。
目の前が真っ暗になって、実穂子は正樹の腕に倒れこんだ。
◇ ◇ ◇
「実穂子・・・。実穂子・・・」
正樹は実穂子に呼びかけた。
気を失った後に、最初に回復した実穂子の聴力が正樹の声を判別した。
初めは遠くから聴こえていた声が、実はすぐ隣から発せられたものと認識するまでに時間はかからなかった。
聴力が回復してすぐに、手のひらの感覚も戻った。
すべすべとしていて冷たい触感。
実穂子はそれがダイニングテーブルだとすぐにわかった。
手のひらは冷たいが、手の甲は温かい。
「大丈夫かい、実穂子」
実穂子は目を開いた。
意識を取り戻し、自分がダイニングの椅子に座っていることを認識した。
隣では正樹が実穂子の手を握っていた。
もう一方の手で、実穂子が椅子から崩れ落ちないようにしっかり支えていた。
しかしながら、自ら掛けている椅子に座った記憶が実穂子にはない。
最も新しい記憶は、玄関先で正樹に何か言い返して・・・。
実穂子はその発端がカノンであることを思いだした。
カノンがふたり見えた。
カノンがふたりいるかもしれない、と思った途端・・・。
いや、そんなことあるはずがない。
実穂子は正樹の手を握り返した。
「大丈夫。ごめんなさい」
「疲れてるんだ、きっと。いろいろあったから」
「そうね。ちょっと考えすぎたかも」
実穂子は、カノンが同時にふたり見えた記憶を消し去ろうとした。
常識で考えれば、カノンはひとり。
正樹の言う通り、疲労が溜まって思考回路に支障をきたしたに違いない。
実穂子の表情が柔らかくなったことに、正樹は安堵した。
正樹は、玄関から垣根越しにわずかに見えるハイエースの屋根を見やった。
実穂子も開け放たれた玄関の外に視線を移した。
敷石と雑草が門扉まで伸びているのが見えるだけで、人影はない。
実穂子は首を回して、ソファでテレビを見ているカノンに視線を送った。
実穂子の視線に気づいたのか、カノンは実穂子のほうを見て口元を緩めた。
正樹は実穂子の手を軽く握って言った。
「実穂子、本当にすまないが現場に戻らないといけない」
「なんで?」
「仕事なんだ」
実穂子は納得いかなかった。
カノンが見つかって、崩壊しかけていた家族と家庭が元に戻った。
この瞬間以上に大切なものがあるのだろうか。
「せっかく、カノンが・・・」
実穂子はリビングでテレビを見ているカノンをちらっと見た。
「カノンが帰ってきた。一緒にいてやりたいのはやまやまだけど、どうしても僕が行かないといけない仕事があるんだ」
実穂子は黙ってしまった。
「明日の夜には戻ってくる。それまでカノンを頼む」
正樹はダイニングテーブルに手をついて席を立った。
「あ、そうだ。ホットケーキ焼いといた。材料がキッチンに出てたから。カノンの好物だろ」
正樹はキッチンからホットケーキが載った皿をダイニングテーブルに運んだ。
きつね色に焼けたホットケーキは、何枚か焦げていた。
本来自分が焼くはずだったホットケーキを、代わりに作ってくれた正樹に
「ありがとう」
と言って微笑んだ。
そしてリビングのカノンに届くように
「カノン、こっちへいらっしゃい。パパがホットケーチ焼いてくれたって」
実穂子はカノンを呼び寄せた。
カノンは弾むようにリビングから離れ、実穂子のもとに馳せ参じた。
「もう行かないと」
少し寂し気な実穂子は、正樹の手に触れた。
「パパ、出かける前にカノンをハグしてあげて」
「うん」
正樹はショルダーバッグを肩に掛け、玄関に向かって歩きだした。
“なんで?” “方向が違う” と実穂子は思った。
「待って、パパ」
カノンはダイニングテーブルのハイチェアにようやくよじのぼった。
ウォーキングシューズの踵を踏んで、正樹は玄関から出て行こうとする。
「パパ、どこへ行くの?」
実穂子の声が正樹に届かなかったらしく、正樹はそのまま玄関から前庭に出て行った。
カノンは先割れスプーンを手に、”ホットケーチ”と言いながら喜々としている。
「ちょっと待っててね」
カノンにそう言うと、実穂子は席を立った。
一瞬襲われた立ち眩みをやり過ごして、実穂子は玄関から消えた正樹を追った。
正樹は門扉に手をかけ、立ち止まった。
振り返って縁側のほうに向かって軽く手を振った。
正樹の行動を不思議に思い、実穂子はサンダルを履いて前庭に出た。
正樹がハイエースに乗る気配を横目で感じながら、実穂子は縁側のほうを向いた。
カノンが縁側に座っていた。
つまらなさそうな表情で足をぶらぶらさせている。
カノンは実穂子の視線に気づいて
「ママ〜」
縁側の庭石を蹴って、実穂子に向かって駆けだした。
実穂子はぞっとした。
カノンに背を向けて、玄関ドアを内側から勢いよく閉めた。
玄関ドアに背中をつけた実穂子は、鼓動が高鳴るのを感じた。
手が震え、顔面がひきつった。
また幻覚を見てしまったのか。
ダイニングテーブルではカノンがホットケーキを手で掴み口に運んでいる。
そんなカノンを見て実穂子は冷静さを取り戻しつつあった。
「カノン、行儀悪い」
カノンは口の周りにケーキくずをつけてニッと笑った。
思わず笑顔になり、実穂子はカノンの傍に近寄った。
ダイニングテーブルの上にA4サイズの茶封筒が裏返しに置いてあった。
正樹が帰宅時に置いた微かな記憶とともに、電話で正樹が話していた“DNAが一致した書面”という言葉を思いだした。
実穂子は茶封筒を表に返した。
表の面には”簡易検査結果”と書かれてあった。
中身を確かめようと封筒の中に手をいれたが、思い直した。
実穂子は封筒を二つ折りにすると、キッチンのゴミ箱に投げ捨てた。
庭のほうから声がした。
シロの名前を呼ぶ声が聴こえた。
カノンの声だった。
それから、カンカンという軽金属を叩く音が聴こえてきた。
実穂子は恐る恐る縁側の傍に立ち、カーテンをつまみあげた。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん