さよなら、カノン【小説版】
堪えきれず涙が溢れる。
正樹はシーツの端から出ている少女の小さな手に触れた。
正樹の大きな手が少女の小さな手を包みこんだ。
正樹は少女の美しい寝顔を、潤んだ眼で愛おしく見つめた。
「カノン・・・おかえり・・・」
「うーん」
ソファの上でカノンはうなり声をあげた。
身体が動かない。
何かに押さえつけられているようだ。
カノンは眠い目をこじあげて、何かの正体を確かめた。
見ると、実穂子の腕が腰から臍のあたりに覆いかぶさっていた。
実穂子の腕の下敷きになっていた手を、カノンは引き抜いた。
「ママ、ママ」
実穂子はソファにもたれかかるようにして寝落ちしていた。
カノンが小さな手で実穂子の肩を揺すった。
「うーん」
今度は実穂子がうなり声をあげた。
眠りから覚めたと同時に、身体のあちこちに痛みが走り、実穂子は顔を歪めた。
「ママ、起きて」
聞こえてきた声に実穂子は無意識に返答した。
「どうしたの、カノン?」
そう口走った自分に実穂子はハッとした。
一瞬にして眠気が飛んだ。
上体をすくっと起こし、カノンの腰に絡めた腕を解いた。
そして目を見開き、目の前にいるカノンをまじまじと見つめた。
「カノン、カノン?」
怪訝そうに実穂子を見返すカノン。
実穂子は思わずカノンを抱きしめた。
抱きしめてしばらく離さなかった。
◇ ◇ ◇
縁側のカーテンが朝の陽光を吸いこんでキラっと輝いた。
「カノン、どこか痛いところはない?」
カノンをソファに座らせて、実穂子はカノンの正面に正座した。
「うーん」
カノンは生返事を返した。
「うーんじゃわからないでしょ。どこか痛いよとか苦しいよとか、ないですか」
「ない!」
カノンは元気よく答えたが、すぐに表情を曇らせた。
実穂子はカノンの表情を観察した。
「どうしたの、カノン」
カノンはおもむろに自分の手を臍のあたりに持ってきて、空腹を訴えた。
「お腹空いたの? あ、そうか。もう朝だもんね」
行方不明のなっていた期間は2年に及ぶ。
カノンがいつから食事を摂ってないか、知る由もない。
きっと満足な食事も摂れていないんじゃないか。
実穂子は手作りの食事でカノンの空腹を満たしてやりたかった。
「カノン、何か食べたいものはある?」
カノンは首を傾げて考えを巡らせた。
あれもこれも思いついてひとつに絞れない様子だった。
「そうだ、ママがとびっきり美味しいホットケーキを焼いてあげる」
ホットケーキはカノンの大好物のひとつだった。
「ホットケーチ!」
5歳の誕生日を迎えるずっと前から、カノンはホットケーキのことをホットケーチと言っていた。
機嫌の悪いときでも、“ホットケーチ”の甘い香りが漂うと、カノンはすぐに機嫌を直したものだった。
「ママがとびきり美味しい“ホットケーチ”を作ってあげる」
キッチンに向かった実穂子は袋戸棚からホットケーキミックスを取りだした。
ふとテーブルを見ると、スマートフォンが死んだ状態で置いてある。
昨夜電源を切ったことを思いだし、片手操作で実穂子はスマートフォンの電源を入れた。
そのままスマートフォンを充電スタンドに立てると、実穂子は食器棚からガラスボウルを取りだす。
そのとき、充電スタンドのスマートフォンのランプが点滅し、電話の着信音が鳴りだした。
ボウルに材料を移す手を止めて、実穂子はスマートフォンに手を伸ばした。
「あ、いけない」
発信元が正樹であることを確かめる前に、実穂子は電話に出た。
相手が喋る前にやや早口で切りだした。
「パパ、ごめんなさい。スマホ切ってた」
正樹は電話が繋がったことに安堵し、ため息をついて言った。
「実穂子、どうした? 具合でも悪いのか」
「ううん、大丈夫。パパ聞いて。カノンが、カノンが・・・」
「ああ、本当によかった」
「あたしたちのカノンが帰ってきたのよ」
「奇跡みたいだ。2年前とほとんど変わってない」
「変わってないって、まだカノンに会ってないくせに」
正樹は小さく笑った。
「おかしなこと言うな。カノンなら僕の隣にいる」
実穂子は耳を疑った。
「えっ? ちょっと待って・・・」
「いましがた足高署から引き取ってきた。もうすぐ家につく」
◇ ◇ ◇
正樹は走行するハイエースの後部座席で電話をしていた。
正樹の隣では、すっかり目覚めたカノンが膝立ちになって車窓を眺めていた。
「ちょっと待って。カノンはうちにいるのよ」
「おいおい、変なこと言うなよ。夕べ遅くに足高署から電話があって、カノンらしき女の子を保護していると。実穂子と連絡がつかなくて、僕が足高署に出向いて・・・」
「うそ・・・」
「ほら、DNAが一致したという書面もある」
「カノンは夕べあたしが見つけた。いま、あたしとうちにいるの」
リビングのソファのひじ掛けに頭をのせて、カノンは幼児向けのテレビ番組を見ている。
理解に苦しむ実穂子の言葉に、正樹は混乱した。
まるできつねに包まれたような話だ。
「どうなっているんだ? とにかくもうすぐ家につくから」
ほどなくして宮田が運転するハイエースが吉川宅の前に停まった。
「着いたぞ、カノン」
正樹はカノンの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「ただいま!」
カノンがニッと笑った。
「まだ早いな、カノン」
正樹も笑った。
スライドドアがゆっくり開いてカノンがそろりと車から降りた。
正樹はカノンの肩まわりに軽く手を添えて、運転席の宮田に言った。
「ちょっとあがっていきませんか」
「いや、家族水入らずで」
宮田は穏やかな笑顔でそう答えた。
キャップを目深の被り直した宮田を車に残して、正樹はカノンを連れて鉄の門扉を押し開けた。
敷石の隙間から雑草が伸びている。
正樹に連れられたカノンが、手入れの行き届いていない自宅の敷地に足を踏み入れる。
玄関ドアは全開になっていた。
そして玄関ドアの前に、エプロン姿の実穂子が立っていた。
実穂子は眉間にしわを寄せ、正樹にまとわりつくカノンを見つめた。
「誰、その子?」
実穂子が正樹にポツリと言った。
「カノンだよ」
値踏みするような目で、実穂子はカノンを見て言った。
「違う。カノンじゃない」
「何言ってるんだ、実穂子」
カノンは実穂子を見るや否や、実穂子に向かって駆けだした。
「ママ!」
実穂子は驚愕した。
今自宅にいるカノンと瓜二つなのだ。
実穂子は一歩、後ずさりした。
「来ないで!」
威圧するような大声を発して、実穂子はカノンを制した。
実穂子の声に圧されて、カノンは立ちつくした。
正樹の笑顔が一瞬にして凍りついた。
困惑するカノンを引き寄せて正樹は
「どうしたんだ? 実穂子」
と問うた。
「来て」
実穂子は正樹に手招きした。
正樹だけが来るよう、カノンに対しては首を振った。
動かない正樹にじれた実穂子は、正樹の腕を掴んで玄関に引き入れた。
「見えるでしょ、カノン」
困惑した表情で正樹は玄関から室内を眺めた。
実穂子はソファで寝転ぶカノンに”カノン”と呼びかけた。
するとカノンはソファの影から顔をあげて実穂子を見た。
勝ち誇ったような笑顔で、実穂子は正樹に向いた。
「見えたでしょ」
正樹はリビングに置いてある二人掛けのソファと、TVボードの上の大型テレビを見つめた。
作品名:さよなら、カノン【小説版】 作家名:椿じゅん