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さよなら、カノン【小説版】

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「いま、休んでいます」
「あの、実穂子さん。整理しましょう。とにかく話は会ってから・・・。何なら迎えにいきます」
「すみません。今夜は出たくないので・・・」
「実穂子さん」
実穂子は吐息をつき、スマートフォンの通話を切った。
実穂子の手のなかで、スマートフォンの緑色のランプが点滅した。
福住からの再びの着信だった。
実穂子はスマートフォンの電源をオフにした。

「あら、切られちゃった」
福住は驚いて藤原の顔を見つめた。
「実穂子さん、何だって?」
「来れないって。出たくないって」
「どうなってんだ。あれだけ熱心にカノンちゃんを探していた母親が」
藤原と福住が混乱しているさなか、医務室のドアが開いた。
藤原は女医に向かって 
「先生、お疲れさまです」
と言って、女医の言葉を待った。
「軽い脱水症状が見られますが、心拍体温など数値に異常は認められません。目立った外傷もありません」
「ああ、よかったぁ」
藤原は胸を撫でおろした。
「それで・・・?」
「血液型は一致しました。身体的特徴も。簡易DNA検査は2時間程で結果が出ます」
「カノンちゃんだ。どこをどう見てもカノンちゃんだよ。なぁ、福住」
「はい、おそらく・・・」
相槌を打った福住の表情は、藤原のそれほど晴れやかなものではなかった。
「とにかく見つかったんだよ、喜べ、福住よ」
「でも・・・」
「あ、母親が来れないってやつか・・・。いろいろあって疑心暗鬼になってるんだろう。母親がだめなら、あ、あれだ。旦那、旦那の連絡先わかるか」


こじんまりしたビジネスホテルのロビーの片隅で、正樹は宮田を交えて思案を巡らせていた。
無人の受付カウンターの端には、ホテルの案内と並んで、松本市内や松本城の観光パンフレットが備えつけられている。
硬めのソファに腰掛け、正樹はテーブルの上に体育館の平面図を開いた。
宮田は立ったまま、同僚スタッフの不在に愚痴をこぼした。
「小曾根の野郎、こんなときにしょうがない野郎だ。大事なときに・・・」
「まあ仕方ありません。大きな事故でなくてよかった」
小曽根は今年入社したばかりの新人だった。
しかし入社前からインターンとして、いわゆる“吉川組“の手足として仕事をしており、正樹と宮田は共に、小曽根の働きぶりを評価していた。
小曽根の不在は正直痛い、と正樹は頭を抱えた。
突発的に起こってしまった人員不足に対処するしかない。
「会社で、余っている人間は、いないんですか」
宮田はイライラを募らせた。
「掛け合ったけど、幕張の案件で手がいっぱいだそうです」
「どうします、チーフ? カメラがひとり足りない」
「僕がやります」
「いやいや」
宮田は声のトーンをあげて正樹の提案を拒絶した。
「そしたらモニターは、モニターは誰が見るんですか?」
「僕がモニター見ながら、やります」
「そりゃ無理ですよ、チーフ」
「なんとかします。宮田さんみたいないい絵撮れないかもしれませんが」
「まいったなぁ」
宮田は正樹に背を向けて、ベースボールキャップの上から頭を掻いた。
体育館の平面図を前にした正樹に促されて、宮田は正樹の対面に腰をおろした。
正樹が話し始めたとほぼ同時に、正樹のズボンのポケットのなかで携帯電話の呼び出し音が鳴った。
携帯電話を取りだして開くと、それは足高警察署からの着信だった。
宮田に目で中座するサインを送り、正樹は席を立った。
ロビー隅の観光案内板の前まで移動し、そこで正樹は発信者を確認し、恐る恐る通話ボタンを押した。
正樹の表情は蒼ざめ、携帯電話を持つ正樹の手が震えていた。
「吉川です」
消え入りそうな声だった。
きっと悪い知らせに違いない、と正樹は思った。
カノンがいなくなって二年近く経つ。
見つかったとしてもカノンが生きている可能性はきっとゼロに近い。
あらかじめの覚悟はしているつもりだったが、いざそのときとなると気持ちの整理がつかない。
「吉川さん? 吉川正樹さん?」
「はい、正樹です。福住さん?」
「吉川さん、カノンさんと思われる女の子が・・・」
思いもよらぬ言葉が福住の口から聴こえてきた。
「本当ですか。それ、本当なんですか」
正樹の蒼ざめた顔に、血の気がサッと戻った。
目を潤ませ興奮した様子の正樹を、宮田は離れた場所から見るとはなしに見ていた。
正樹は律儀に通話の相手に頭を下げ、通話を終えた。
膝がぐらつく足取りで、正樹は宮田のいるテーブルに戻った。
「宮田さん、・・・カノンが・・・」
「見つかったんですか」
「カノン、生きてるそうです」
「えっ、カノンちゃんが生きてる? よかった、よかったですね、チーフ」
宮田も吉報を聞き相好を崩した。
正樹は笑顔で涙を流した。


カノンらしき少女の発見とともに、実穂子に連絡がつかなくなったことも福住から正樹に伝えられた。
操作を誤ってスマートフォンの電源を落としてしまったのか。
確かめるべく正樹はすかさず実穂子に電話した。
だが福住の言う通り、“電源が入っていない”という虚しいメッセージが返ってくるだけだった。
宮田の運転するハイエースは、正樹を乗せて深夜の高速道路を疾走した。
助手席で正樹は、携帯電話であらためて実穂子を呼び出した。
乾いた機械音声の繰り返しが聴こるだけだった。
「連絡つかないんですか」
「ええ」
「もうお休みになってるんじゃないですか」
「いや、実穂子、カノンが見つかったことは知っています。その上で、警察に出向きたくないとか」
「どういうことですか」
「さあ、僕にも・・・」
「奥さん、あれほど娘さんのことを心配なさってたのに」
「警察も不思議がってます。僕も・・・」
正樹は再度通話を試みた。
だがその夜、実穂子が電話に出ることはなかった。


夜の帳が解け、東の空が白み始めた早朝に、ようやく正樹を乗せたハイエースは足高警察署に到着した。
正樹は車を降り、うすぼんやりと佇む三階建ての建物を眺めた。
「俺、車で待ってます」
宮田が開けっ放しになった助手席ドアを閉めがてら、正樹にそう言った。
正樹は宮田に軽く頭を下げ、建物脇の夜間通用口に向かった。
通用口の前で、福住が正樹を待ち構えていた。
顔を見合わせたふたりは互いに掛ける言葉が見つからず
「さあ、中へ」
とだけ福住が言って、正樹を署内に引きいれた。
正樹は福住の案内で内階段を3階まで駆けあがった。
3階の廊下で正樹を待っていたのは藤原だった。
「吉川さん」
正樹を見るなり、弾むような声で藤原が言った。
「藤原さん、ありがとうございます」
正樹は藤原に一礼をした。
「私の見立てですが、カノンちゃんに間違いないと思います」
正樹は深く吐息をついて、医務室の扉を見つめた。
「血液型の照合と簡易DNA検査をとりあえず終えました。しかし実の親が確認するのが一番です」
藤原は軽くノックした後、医務室の扉を押し開けた。
室内を窺いながら、正樹はひとりで医務室に入った。
薄いカーテンの隙間からスチールベッドの角が見えた。
正樹はカーテンをそっと手で開いた。
ベッドの上にすやすやと眠っている少女がいた。
正樹は息を呑んだ。
溢れくる感情を抑えつつ、正樹はベッドの傍らに跪いた。
少女のほつれた髪を指で直し、少女の顔を覗きこんだ。