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さよなら、カノン【小説版】

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バケツをリビングのソファのところまで運び、湯にひたしたフェイスタオルを絞る。
ソファには未だ意識が清明ではないカノンが寝かされていた。
ぎゅっと絞ったタオルで、実穂子はカノンの小さな手と煤けた顔を撫でるように優しく拭いた。
実穂子のハンドバッグはキッチンの足元に、スマートフォンはテーブルの上に無造作に置かれている。
タオルを絞り直し、カノンの首や足の汚れを拭い取った。
それを繰り返しながら、実穂子はカノンの身体に異変がないか確かめた。
皮膚が露出している腕や太腿に多少の擦り傷は見られたが、人為的に傷つけられたり縛られた痕はなかった。
カノンの髪にまとわりついた枯葉を落とそうとタオルを近づけたとき、カノンの頬の筋肉が持ちあがるように動いた。
少し生気を取り戻したのか、頬に赤味がさした。
目は閉じられたままだが、何か言いたげにカノンの唇が震えた。
「カノン、ママよ」
実穂子はカノンに呼びかけた。
けれどもカノンは目を閉じたまま、実穂子の声に反応しない。
実穂子はさらに問いかけた。
「カノン、自分の名前が言える?」
カノンの唇が反応した。
言葉を発しようと小刻みに動いた。
額の生え際の産毛がふわっと浮き立った。
今にも目を見開くのでないかと思い、実穂子はカノンの小さな手を握った。
「カノン」
薄く開いたカノンの口元からは言葉ではなく、吐息が漏れた。
「カノン、しっかり」
そのとき、実穂子はカノンの手が握り返してくるのを感じた。
実穂子は両の手のひらでカノンの手を包みこんだ。
目は閉じられているが、声の聞こえる方向にカノンはゆっくりと顔を向けた。
そしてカノンは言葉を発した。
「マ、マ・・・」


「ざけんじゃねぇ」
ふたりの少年はパトカーの車内で手錠をかけられ、自由を奪われていた。
スカジャン少年が運転席座席を足で蹴った。
運転している男性警官がルームミラー越しにスカジャン少年を睨みつける。
助手席の福住が少年たちに振り向いて言った。
「やめなさい。器物破損の罪が増えるわよ」
パトカーは足高署の玄関に到着した。
福住がパトカーを降りた時、後方でクラクションが小さく鳴った。
ヘッドライトが消え、黒塗りのグロリアが福住の傍らに停まった。
パワーウィンドウを通して運転者が藤原だと、福住はすぐに気づいた。
「どうしました? 藤原課長」
藤原はウィンドウを降ろした。
「ちょっと見てほしい」
藤原はグロリアの後部座席を顎で指し示した。
福住は後部座席の窓に顔を近づけた。
だが車内は暗くて判然としなかったため、ペンライトを点灯させて車内に向けた。
青木がでんと座っていた。
その青木の肩にもたれかかるように、目を閉じて座っている少女がいた。
就学前の幼い少女に見えた。
福住はハッとした。
「課長、もしかして・・・」
「ああ・・・」
少女の着衣にプリントされた文字が、ペンライトの光に浮かびあがった。
福住は思わず呟いた。
「あっ! 浅葉幼稚園・・・」
◇   ◇   ◇
少女は毛布にくるまれて車椅子に乗せられた。
通用口から署内に入り、エレベーターで建物の3階まで運ばれた。
車椅子の後ろを福住と藤原が話しながらついていった。
「どこにいたんですか、あの子」
「バス停のベンチにいたところを発見された。発見したのは・・・何て名前だったかな、平田地区の駐在」
「平田地区だと、柳井さん」
「そうそう。その柳井巡査が連絡してきたので急行した」
「そうですか。柳井巡査お手柄ですね。で、バス停というのは?」
「龍神口のバス停だ」
「龍神口?」
福住は暫く思案し、ハッと気づいた。
「どうした?」
「さっき実穂子さんから電話があって・・・」
「実穂子さん?」
「はい。龍神口がどうの、と。私、公務中だったのでしっかりと聞き取れなかったのですが」
少女を乗せた車椅子は医務室と書かれた部屋の前に着いた。
半開きになったドアの内側で、白衣を着た女性医師が車椅子を待ち受けていた。
藤原は女性医師に頭を下げて言った。
「先生、すみません。夜分にお呼び立てして」
「いえ、よくあることですから。お気遣いなく」
職員に押された車椅子は医務室の中に入った。
「検分しますので、しばらく外でお待ちください」
医務室のドアが閉められ、福住と藤原は廊下で待機した。
藤原が福住との会話の続きを思いだし、顎に手を当てた。
「実穂子さんが龍神口と言ったのか。早いな。いったい誰が連絡したんだろう?」
◇   ◇   ◇
毛布にくるまれた少女は車椅子から医務室の医療用ベッドに移された。
真新しいシーツが敷かれたベッドの上で、少女は薄汚れた体操着から簡易な着衣に着替えさせられた。
ゴム手袋をした女医は少女の首を持ちあげ、髪についた土埃や枯草を慎重にトレイに落とした。
女医はトレイの上の土くれや枯草をジッパー式のビニール袋に入れた後、片手で操作できる小型カメラで、少女の首や脇、股間から足の裏に至る全身を撮影した。
手袋をした指で少女の口の中も調べた。
口内の粘液を拭い棒でかきとり、それを検査機器にかけた。
女医が次に少女の眼球を調べようとしたとき、少女の眉間に動きがあった。
「ねぇ、聞こえる?」
女医はすかさず少女に問いかけた。
少女は不意に目を開いた。
見知らぬ女性の顔がそこにあることに少女は怯えた。
「聞こえる? カノンちゃん?」
少女は震えながら呟いた。
「ママ・・・。ママ・・・」
目の端から涙をこぼしながら、不規則に”ママ、ママ”と繰り返した。


リビングのソファの上に、カノンはブランケットを掛け寝かされていた。
実穂子が見守るなか、カノンは眼を閉じて眠りに落ちた。
実穂子は安心しきったカノンの寝顔を愛おしく見つめた。
カノンの清拭に使ったバケツを片付けるためにキッチンに向かうと、ダイニングテーブルの上でスマートフォンの画面が明滅した。
バケツを流し台に置いて、実穂子はスマートフォンに手を伸ばした。
福住からの電話であった。
実穂子は通話アイコンを押した。
「吉川です」
「実穂子さん? ああよかった」
「福住さん、あたし・・・」
実穂子は堪えきれずに嗚咽を漏らした。
「まだカノンちゃんと確定したわけじゃないけど、とりあえずよかった」
「確定とか・・・。カノンです」
実穂子は涙を拭きながら、笑みを浮かべた。
「私もそう思いますけど、実穂子さん、署のほうにいまから来られますか」
「署のほうに? どうして?」
「お母さんに見ていただかないと」
「えっ?」
「えって、カノンちゃんが見つかったかもしれないんです」
「ありがとうございます。見つかりました」
「い、いえ、まだカノンちゃんかもしれないという段階。親御さんに最終判断してもらわないと」
「判断とか、なにを仰っているのか・・・。もし手続き的なことでしたら、明日にもうかがいます」
「実穂子さん、よく聞いてください。カノンちゃんらしき子どもを足高署で預かっているんです。うちの職員が龍神口のバス署で発見して、いま医師による検分を・・・」
「あの、福住さん。カノンなら、いまうちにいます」
「えっ? カノンちゃんが吉川さん宅に?」
「はい、あたしが龍神口のバス停で発見しました」
「実穂子さんが発見した?」