探偵小説マニアの二人
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年2月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。ただ、今回のお話はフィクションではありますが、作者の個人的な苛立ちが大いに入っていることをご了承ください。
殺人事件のパターン
今でいうミステリー小説と言われるものは、昔から、
「探偵小説」
「推理小説」
「ミステリー」
などと、いろいろな言われ方で変化していった。
その中の細かいところでも、いくつかのジャンルに分かれている。ミステリー小説の、
「黎明期」
と言われていた時代などでは、
「本格探偵小説」
「変格探偵小説」
などという形の言われ方をしていた。
「本格探偵小説」
と呼ばれるものは、いわゆる、
「トリックなどを駆使した本格的な謎解きがおもの作品」
ということで、
「変格探偵小説」
というのは、殺人に潜む動機であったり、その犯罪の猟奇性などが、精神的、心理面で交錯してくるところなどがから、そう呼ばれたりする。
猟奇的、あるいは、耽美主義の犯行などは、こちらになるということであろう。
ただ、あくまでも、
「大まかに分けて」
という、強引な分類ということで分けるとこうなるというだけで、一つの小説で、本格も変格も、どっちも兼ね備えた話は結構あるだろう。
「肩やトリックや謎解き重視で、肩や、動機などの猟奇性などが主になるので、話として、組み合わさっていても、何ら問題はない」
というものだ。
そもそも、人を殺すためには、動機が必要であり、殺害方法も練る必要があるのだから、変格も本格も関係ないといえるだろう。
ただ、どちらの要素があろうとも、こちらかが特化していれば、特化している側の小説といってもいいだろう。
そういう意味では、作家としては、
「本格か変格か、どちらかを言われる方がいい」
と思うかも知れない。
ただ、本格であってほしいと思っていながら、世間の評価は、変格であったりすれば、
「それでも嬉しい」
と思う人と、ショックで落ち込んでしまう人がいるだろう。
どちらかというと、本来の作家ともなると、後者の方が多いのかも知れない。
「小説を書いていることで、一本筋が通っているところがあると思っている人は、厳格にどちらがいいかということを自覚もしているだろう。それだけに違う方を言われると、言われないよりも大きなショックを受ける人の方が多いのではないだろうか?」
と、そんなことが考えられるのであった。
そんな黎明期というのは、大正ロマンの時代くらいから、戦後すぐくらいまでではないだろうか。
それ以降の日本の探偵小説界というのは、いわゆる、
「社会派小説」
と呼ばれるものが出てきて、
「企業や社会を中心に、ヒューマンドラマの様相を呈してくる」
というようになると、その頃には、どうしても、企業などの、団体における犯罪というものが増えてくるということであろう。
戦後すぐは、空襲による廃墟やバラックなどで、犯罪といっても小説になるようなものは、どうしてもパターンが決まっていたことだろう、
どうしても、夜の闇の世界に蠢く犯罪が多かったりしたが、それが、戦後が次第に終息し、復興が叶えられ、
「もはや戦後ではない」
と言われるような時代となると、舞台は会社や組織に移っていく。
特に、インフラの整備に絡む国との贈収賄の問題など、結構出てきたことだった。
いわゆる、
「ゼネコン」
と言われる組織などが、インフラの整備には不可欠である。
特に、ゼネコンの体制として、下請け、孫請けなど、どんどん中間に絡んでくると、それだけ、お金の動きも複雑になるだろう。
時代としては、戦後復興の象徴として、オリンピックが開かれるということで、新幹線を中心とした、鉄道網整備であったり。道路の方も、都市高速、東名高速などの整備が進み、高層ビルの建設、その他で、利権がらみが多かっただろう。
さらに、意外と忘れられがちではないかと思うのだが。
「インフラを進めていくということは、そこには必ず、立ち退きの問題などが絡んでしまうので、そこから見えてくるものが、土地の買収、さらには、ダム建設予定地に絡んだりする問題など、結構たくさんの、社会派小説が生まれた」
と言えるだろう。
さらに、オリンピック開催まではよかったが、その反動で、不況になったことで、それまでの好景気が今度は一気に不況に落ち込むという、一種の、
「悪循環」
から、大きな社会問題に絡んでくるということであった。
それを思うと、
「インフラの問題は、底なし沼のようにキリがない」
と言えるのはないだろうか?
そんなインフラの問題から、今度は、高度成長期の、
「負の遺産」
とでもいえばいいのか、確かに高度成長時代は、未曽有の好景気で、
「奇跡の復興」
ともいわれたが、それらのことを差し引いても、さらに大きな、
「負の遺産」
と言えるものが発生した。
経済であれば、もう一度頑張れば、不況になっても、復興すればいいのだろうが、この問題だけは、一度起こしてしまうと、もうどうすることもできずに、手遅れになってしまうのだった。
それが、
「公害問題」
と言われるものであった。
こちらは、
「貧富の差」
という問題とは比較してはいけないのだろうが、こちらは、病院が出てしまうと、もう取り返しがつかない。
公害に身体を犯された人間は、治ることのない後遺症を背負った人もたくさんいて、
「高度成長で得た儲けをいくらはたいても、賠償にはおいつかないのではないかと思うのだった」
それを考えると、
「人間の身体はお金では代えられない」
といってもいいだろう。
お金を払っても、元の身体に戻ることはできない。もちろん、機械の身体を手に入れられるわけでもない。いたるところで、公害問題から、訴訟問題が噴出してきたのだ。
中には、
「公害認定される恐れのあると思われている廃棄物を、危ないと言われ出してからも、垂れ流し続けた企業もあり、明らかに、社会問題とあることが分かっていたにも関わらず、やめようとしなかった会社もあったのだ」
と言えるだろう。
だから、分かってやっていた、
「確信犯」
であった。
しかし、確信犯であっても、相手には弁護士もついている。
殺人事件のパターン
今でいうミステリー小説と言われるものは、昔から、
「探偵小説」
「推理小説」
「ミステリー」
などと、いろいろな言われ方で変化していった。
その中の細かいところでも、いくつかのジャンルに分かれている。ミステリー小説の、
「黎明期」
と言われていた時代などでは、
「本格探偵小説」
「変格探偵小説」
などという形の言われ方をしていた。
「本格探偵小説」
と呼ばれるものは、いわゆる、
「トリックなどを駆使した本格的な謎解きがおもの作品」
ということで、
「変格探偵小説」
というのは、殺人に潜む動機であったり、その犯罪の猟奇性などが、精神的、心理面で交錯してくるところなどがから、そう呼ばれたりする。
猟奇的、あるいは、耽美主義の犯行などは、こちらになるということであろう。
ただ、あくまでも、
「大まかに分けて」
という、強引な分類ということで分けるとこうなるというだけで、一つの小説で、本格も変格も、どっちも兼ね備えた話は結構あるだろう。
「肩やトリックや謎解き重視で、肩や、動機などの猟奇性などが主になるので、話として、組み合わさっていても、何ら問題はない」
というものだ。
そもそも、人を殺すためには、動機が必要であり、殺害方法も練る必要があるのだから、変格も本格も関係ないといえるだろう。
ただ、どちらの要素があろうとも、こちらかが特化していれば、特化している側の小説といってもいいだろう。
そういう意味では、作家としては、
「本格か変格か、どちらかを言われる方がいい」
と思うかも知れない。
ただ、本格であってほしいと思っていながら、世間の評価は、変格であったりすれば、
「それでも嬉しい」
と思う人と、ショックで落ち込んでしまう人がいるだろう。
どちらかというと、本来の作家ともなると、後者の方が多いのかも知れない。
「小説を書いていることで、一本筋が通っているところがあると思っている人は、厳格にどちらがいいかということを自覚もしているだろう。それだけに違う方を言われると、言われないよりも大きなショックを受ける人の方が多いのではないだろうか?」
と、そんなことが考えられるのであった。
そんな黎明期というのは、大正ロマンの時代くらいから、戦後すぐくらいまでではないだろうか。
それ以降の日本の探偵小説界というのは、いわゆる、
「社会派小説」
と呼ばれるものが出てきて、
「企業や社会を中心に、ヒューマンドラマの様相を呈してくる」
というようになると、その頃には、どうしても、企業などの、団体における犯罪というものが増えてくるということであろう。
戦後すぐは、空襲による廃墟やバラックなどで、犯罪といっても小説になるようなものは、どうしてもパターンが決まっていたことだろう、
どうしても、夜の闇の世界に蠢く犯罪が多かったりしたが、それが、戦後が次第に終息し、復興が叶えられ、
「もはや戦後ではない」
と言われるような時代となると、舞台は会社や組織に移っていく。
特に、インフラの整備に絡む国との贈収賄の問題など、結構出てきたことだった。
いわゆる、
「ゼネコン」
と言われる組織などが、インフラの整備には不可欠である。
特に、ゼネコンの体制として、下請け、孫請けなど、どんどん中間に絡んでくると、それだけ、お金の動きも複雑になるだろう。
時代としては、戦後復興の象徴として、オリンピックが開かれるということで、新幹線を中心とした、鉄道網整備であったり。道路の方も、都市高速、東名高速などの整備が進み、高層ビルの建設、その他で、利権がらみが多かっただろう。
さらに、意外と忘れられがちではないかと思うのだが。
「インフラを進めていくということは、そこには必ず、立ち退きの問題などが絡んでしまうので、そこから見えてくるものが、土地の買収、さらには、ダム建設予定地に絡んだりする問題など、結構たくさんの、社会派小説が生まれた」
と言えるだろう。
さらに、オリンピック開催まではよかったが、その反動で、不況になったことで、それまでの好景気が今度は一気に不況に落ち込むという、一種の、
「悪循環」
から、大きな社会問題に絡んでくるということであった。
それを思うと、
「インフラの問題は、底なし沼のようにキリがない」
と言えるのはないだろうか?
そんなインフラの問題から、今度は、高度成長期の、
「負の遺産」
とでもいえばいいのか、確かに高度成長時代は、未曽有の好景気で、
「奇跡の復興」
ともいわれたが、それらのことを差し引いても、さらに大きな、
「負の遺産」
と言えるものが発生した。
経済であれば、もう一度頑張れば、不況になっても、復興すればいいのだろうが、この問題だけは、一度起こしてしまうと、もうどうすることもできずに、手遅れになってしまうのだった。
それが、
「公害問題」
と言われるものであった。
こちらは、
「貧富の差」
という問題とは比較してはいけないのだろうが、こちらは、病院が出てしまうと、もう取り返しがつかない。
公害に身体を犯された人間は、治ることのない後遺症を背負った人もたくさんいて、
「高度成長で得た儲けをいくらはたいても、賠償にはおいつかないのではないかと思うのだった」
それを考えると、
「人間の身体はお金では代えられない」
といってもいいだろう。
お金を払っても、元の身体に戻ることはできない。もちろん、機械の身体を手に入れられるわけでもない。いたるところで、公害問題から、訴訟問題が噴出してきたのだ。
中には、
「公害認定される恐れのあると思われている廃棄物を、危ないと言われ出してからも、垂れ流し続けた企業もあり、明らかに、社会問題とあることが分かっていたにも関わらず、やめようとしなかった会社もあったのだ」
と言えるだろう。
だから、分かってやっていた、
「確信犯」
であった。
しかし、確信犯であっても、相手には弁護士もついている。
作品名:探偵小説マニアの二人 作家名:森本晃次