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つかさの頭の中

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 この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年2月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。ただ、今回のお話はフィクションではありますが、作者の個人的な苛立ちが大いに入っていることをご了承ください。

                 夢の限界

 夢を見ていると、時々、
「自分が本当に夢の中にいる」
 という感覚になることがある。
 というのは、夢を見ていることで、覚えていることが少ないことで、
「夢はたまにしか見ないものだ」
 と考えてしまうことがあるのだった。
 だから、夢を見ていても、自分が、
「夢を見ている」
 という感覚にならないのだ。
 この話は、実際に心理学などで解明されているかも知れないこともあるだろうが、あくまでも、小説の、
「中の人」
 の意識が考えているということで、ご理解いただきたい。
 夢を見ていると思った時点で、目が覚めてしまうのではないかという風に感じているのだということをも、思い込んでいると感じていたのだ。
 だから、夢というのが、その現実との境が、自分ではわからなくなってしまているのであって、目が覚めてから、見た夢を覚えていないというのが、
「思い込みから来ているのではないか?」
 ということを何度も感じていた。
 それは、まるでデジャブのようで、そのため、夢から覚めるその時が、
「あれ? 昨日の夢だったのだろうか?」
 とばかりに、その夢がいつのことだったのか、あるいは、今起きたと思っているのも、ひょっとすると、夢の続きなのではないか? というほどに、感覚がマヒしてしまっているのだった。
 眠っていて、たまに、笑い話でもあるかのように、例えば、自分が不眠症になっていると思い込んでいる時、病院で診てもらっても、
「おかしいですね、眠れないというのは、原因が分かりません」
 ということで、とりあえず、処方してもらった睡眠薬を飲んでいるのだが、
「どうしても、眠れない」
 という感覚しか残らないのだ。
 どういうことなのかということを考えた時、確かに眠れないというのは、
「眠ることができないのは、すべて自分に原因がある、だから、自分で何とかしなければ、この問題は解決しない」
 ということで、誰にも相談せずに、一人で苦しみ、悩んでいるということ人をたくさん見てきた。
 自分は医者でも何でもないが、なぜか、まわりに、似たような人が集まってきて、
「他の人には相談はできないが、君たちだけには、相談してしまうんだよ」
 というのだった。
 それを聞いて、
「ああ、人に相談できないことを、自分にだけ打ち明けてくれるなんて、なんていい人なんだろう」
 と思うのか、あるいは、
「同じような悩みを持っている人が近くにいるということを考えて、同族のつもりで、相談しているのかも知れない」
 と思うのか。
 そのどちらにしても、ありがたい気持ちにあるのも、無理もないことであったのだ。
「夢を見るということで、それだけ、自分の中にあるストレスを発散させることができるということなのだろうか?」
 と考えるようになったのだった。
 実際に夢を見るというのは、見ている時に意識しているわけではない。目が覚めるにしたがって、
「今まで見ていたのは、夢だったんだ」
 ということを意識するから、夢だったと思うだけなのだ。
 だから、言い方を変えると、
「本当はどんな夢を見ていたのか?」
 ということは、曖昧な感覚になるということなのだ。
 何しろ、リアルに見ていた夢を覚えているわけではない。内容を覚えているとしても、それは、
「見たような記憶がある」
 ということを、ぼやけた頭の中で覚えているだけのことなのだ。
 頭がぼやけているということ、さらには、目が覚めてからしか、意識が働かないことから、
「夢を見ていたということを、実際のリアルに記憶しているはずだ」
 と思い込むようになっているのだとすれば、夢というものは、
「潜在意識が見せるものではなく、本当の意識が見せる」
 ということなのかも知れない。
「ただ、それも、自分の勝手な思い込みであり、そもそも、本当の意識なるものが何なのか、分かったものではない」
 と言えるだろう。
 夢というものを、もっと理解しようと思えば、本当は心理学の本などを読んだり、ネットで検索して、記事を見るなどすればいいのだろうが、なぜか、そこまですることを自分で拒否するのだった。
 それはきっと、
「そんなことをしてどうなるか?」
 という思いと、
「解明することが怖い」
 という思いとが交錯しているのだろう。
 実際に夢を見ていると、夢というものがどういうものなのか、その正体を自然と考えている自分がいることに気づくことがある。
 というのも、
「夢にはいくつかのパターンがある」
 ということに気づくのだ、
 しかも、そのパターンは、皆同じではなく、ひょっとすると、
「十人十色で、人間の数だけパターンがある」
 と言えるのだろうが、それもさすがにパターンがありそうな気がする。
 逆に現実の方が、人間の数だけ存在し、
「夢からみれば、現実の世界というのは、これほど、幅の広いものはない」
 ということで、余計に驚かれるのではないだろうか?
 夢の中に、もし、
「もう一人の自分がいたら」
 ということを考えた場合の発想であるが、それは、箱庭に残っている自分を見つめようとしているのと同様に、箱庭の中から、こちらを見ているという感覚を感じるのとの違いに気づくかどうかということが大切なのではないだろうか。
 もう一人の自分の存在を意識することなど、普通であればないだろう。
 まるで、それこそが、
「路傍の石」
 のようではないだろうか。
 そんなことを考えていると、
「こっちから見ている石ころには、一切の意識はないのに、石ころから見ると、見つめられていることが分かり、しかも、相手がこちらを意識できていないなど想像もできていないだけに、身体を避ければ避けるほど、その目が追いかけてくるのが分かるのだ。
 それも、こっちが先に動いてしまうのだ。
 相手が、こちらを意識して目を後から動かしているのなら分かるのだが、意識もしていないのに、こっちが先に動くことで、自分が誘導しているように見えるということで、「夢というものを、どう意識すればいいのか?」
 と考えさせられるのだった。
作品名:つかさの頭の中 作家名:森本晃次