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完全犯罪の限界

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 そんなことを考えると、
「自分のところに、ブーメランで戻ってくるものさ。これこそ、因果応報というものなんだろうな」
 ということなのであろう。
 しかし、文句を言った人間にも、形式的なことしかしようとしない管理人にもきっと分からないことは多いだろう。
 そのうちにクレーマーも冷静になってくると、
「管理人、これは言ってないな」
 ということになり、管理会社の連中を信じられなくなる。
 若夫婦であったり、子供がいる家でも、きっと、自分たちが放っておいたことを後悔することがそのうちに必ず起こるに違いない。
 そんなことを、クレームを最初に言った人は感じることであろう。
 自分たちが、ある程度慣れてきて、音を出さなくなると、他で似たような夫婦が越してきて、今度はやつらが、クレーマーになる。
「問題を起こす方は、起こされるということに関して分からないものだ」
 ということであり、何も考えずに、本能だけで怒ったりするものであろう。
 そんなマンションも、賃貸であれば、
「いつでも引っ越せばいい」
 ということで、
「安心だ」
 と思っている人がいるかも知れないが、そうもいかない。
 なぜかというと、
「引っ越したところが、もっとひどいところなのかも知れない」
 と思うと、
「迂闊に引っ越せない」
 とも考えるからだ。
 しかし、もっと言えば、
「今はきついかも知れないが、すぐに隣は引っ越すかも知れないし、逆に引っ越してきたところで今はいいかも知れないが、数日後くらいに、また誰か引っ越してきて、さらにうるさくなるかも知れない」
 ということだってないとは限らないだろう。
 つまり、
「動いても動かなくても、同じということだってあるのだから、果たしてどっちがいいかなどということは、結論から見ても何が正しいのか分からないのだから、動く動かないという判断は、あてになるものではない」
 と言えるのではないだろうか?
「じゃあ、動くのと動かないのは、どちらがいいのだろうか?」
 と、考える。
 普通考えられることとすれば、
「もし、その思いが外れたとして、どちらの方が後悔が大きいのか?」
 ということを思った時を考えるのだろうが、外れたと思った時、もし、やって外れたのだとすれば、その時に、同時に、
「やらなくて外れたということを想像できるのか?」
 ということを考えた時、
「それができるくらいなら、余計な気を遣ったりしない」
 と、その時に気づくに違いない。
 それを思うと、
「まるで、右手で何かをしている時、左手でも別のことができるというような感覚ではないか?」
 ということを感じたり、
「まるで昔の聖徳太子のように、一度に十人の話を聴き分けることができる」
 などという伝説にもならないたわごとを考えているようなものである。
 実際にそれができるくらいだったら、
「もはや、人間ではない」
 といってもいいだろう。
 だから、何かの答えを、歴史として未来に求める時、
「歴史が答えを出してくれる」
 とよく言われるが、
「本当にそうなのだろうか?」
 と疑ってみたくなる。
 まず最初に思うのは、
「それが、過去の命題の答えだと、誰が教えてくれるというのか?」
 ということである。
 そもそも、その答えが何なのかということが分からないから、どうすればいいのかと聞いているのに、その答えを歴史が出してくれたとして、これがその答えだと教えてくれる人がいなかったり、人間として、
「その時がくれば分かる」
 という能力のようなものが備わっているというのであれば分かるのだが、そうでもないのに、何を言っているのかということである。
 では、
「死んだら分かる」
 ということなのだろうか?
 これだって、死んで生き返った人がいるわけではないので、これこそ、本末転倒な話である。
 それを思うと、
「何が正しいのか?」
 という根本的な話になってくるのである。
 そもそも、人間ごときが、
「未来のことを知る」
 というのが、無理なように、
「過去の答えを未来に求める」
 というのも、元々無理難題なのではないかと思うのだ。
「だから、人生は面白い」
 という人がいるが、本当にそうなのだろうか?
 逆に面白いなどということではなく、
「知ってしまうから、却って怖い」
 という発想になるのではないかと、思うのだった。
 確かに、将来のことが見えているのと見えていないのでは、
「見える方がいいに決まっている」
 という人もいるが、一概には言えない。
 分かっていることで、却って自分に制限を掛けてしまい、何もできなくなってしまうこともあるだろう。
 本来であれば、
「将来の夢や生きがい」
 というものすべてが見えてしまうと、正直、やる気なるものは失せてしまうといっても過言ではないだろう。
 それを思うと、
「将来を知る」
 というのも、怖いといえるだろう。
 人が、ある程度の年齢、つまり、中年以降になってくると、
「若い頃に戻りたい」
 といっている人がいる。
 実際に、若い時に戻れればいいと思っている人がたくさんいるだろう。
 しかし、若い頃に戻ったからといってどうするというのだろうか?
 戻れるとしても、
「途中まで歩んできた自分のある一点」
 に戻ることになるだろう。
 しかし、その一点というもの戻る時、
「今の意識さえ持って戻れれば、未来が分かっているだけに、二度と同じ過ちを犯さないはずだ」
 と思っているのではないだろうか?
 要するに、
「過去にやった間違いを犯さなければ、幸せになれる」
 ということを言いたいのだろうが、そんな単純なものなのだろうか?
 過去に戻って、やり直すとして、自分の中で、
「どこの何が間違っていた」
 ということを自覚しているのだろうか?
 もし、分かっていたとして、
「今度は間違いないように行こう」
 と思ったとして、
「間違えないようにするにはどうすればいいのか?」
 ということが分かっているのだろうか?
 分かっていないのであれば、結局過去に戻ってやり直す機会を得たとしても、結果、また同じことを繰り返すに違いないのだ。
 つまり、
「人生というのは、そんなに甘いものではない」
 ということを考えれば、
「過去に戻ってやり直せない」
 というのは、
「結局、やり直そうと思って、何度やったとしても、結果は同じ。未来を変えることなんかできないんだ」
 ということになる。
 それこそが、真の意味での、
「タイムパラドックス」
 なのではないか?
 と感じるのであった。
「どうして、過去に戻りたくないか? 今がいいのか?」
 ということは、確かに、
「過去に戻って、やり直すとするならば、いくらでもやり直しができる」
 という考え方が、甘いということではあるが、それよりも、
「今自分が考えていることが、果たして過去に戻った際に、同じ考えでいられるか?」
 ということである。
 経験をしているといっても、まわりの環境が違うのだ。もし、同じ環境だとするのであれば、きっとその考えを同い年の友達にしたとしても、
「そんなの、年寄りの考えだ」
 といって笑われるか、笑われるくらいならいいもので、まわりから、
作品名:完全犯罪の限界 作家名:森本晃次