Snag
その言葉に少しだけ気を落ち着けた渡利は、テレビが小さい音で場をにぎわせる食卓に太田と向かい合わせで座り、朝食を食べながら考えた。こうやって、分かりやすい朝を迎えたことはほとんどなかった。大人になってからは昼夜逆転で、自炊をしたこともほとんどない。施設にいたころは朝食の時間こそあったが、他の子供達の目があるから平穏な時間は数秒もなかった。動物園より性質が悪く、早く食べ終えないと取られる上に、早く食べ過ぎても逆恨みされて殴られる。しかし今は、自分が食べ終えるまで、朝食はそこで湯気を立てている。
朝食を終えて窓から外を見た渡利は、水たまりの表面が薄い氷になっていることに気づいた。太田が朝言っていた通り、昼になったら出られるだろうか。元に軌道に戻れる嬉しさもあるが、本音は、このまま昼を過ぎてもここから出たくない。晴れた空には雲がひとつもないが、今はそれすら楽しむ余裕がない。むしろ、見渡す限り同じ青色が広がっているから、どこへ向かえば正解なのか分からない不安が勝つ。それでも景色を目に焼き付けていると、太田がぽんと肩を叩いた。
「昼からまた運転や、目は休めとけよ」
「はい」
渡利は短く答えると、窓から離れた。恵子が厨房の方をちらりと見て、苦笑いを浮かべた。
「お昼ご飯の分がねえ、ちょっと足りないかもしれないんで。行けそうなら買い物に出てきます」
「お世話になりっぱなしで、すみません」
渡利が頭を下げると、行広が笑顔で首を横に振った。
「お客さんなんやから、それでいいんですよ」
渡利が笑顔で応じたとき、食卓のテレビがニュースに切り替わり、河川敷の映像が映し出された。音声は耳に届かず、テロップだけが読み取れた。
『男性が大けが。現金などの被害はなく、通り魔とみられる』
あの河川敷の向かい側で、スープラで待機していた。太田が小声で言った。
「殴り損やった」
これだけ神経をすり減らせているのに、仕事自体が空振りだったのだ。もしくは、被害者にとっても汚い金だから、警察には言わなかったのか。そうだとしたら、太田は金を盗ったという事実を自分に伏せていることになる。もちろん、勝手にあれこれ想像したところで、何の保証もない。渡利が歯を食いしばったとき、太田は歯を見せて笑いながら言った。
「長い一日になるぞ、寝とけ」
朝食の片づけが終わり、恵子は上着を着込むと鞄を肩に掛けて、玄関前のフックに引っかかったランドクルーザーの鍵を手に取った。行広は軒先の掃除を終えて戻ってきたところで、太田の靴がないことに気づいた。恵子とすれ違うとき、行広は足元を指差した。
「でかい方、おらんぞ」
恵子は靴を履きながら、耳を澄ませた。外から一方的な話し声が聞こえる。
「電話してはるね」
「今、出るんか?」
「大丈夫でしょ」
行広を残して外に出ると、恵子は冷たい空気を吸い込んだ。いつもと違って、少しだけ澱んでいるようにも感じる。ランドクルーザーの前まで来たとき、話し声が近くなった。さっきの会話は一旦終わり、今度は違う相手にかけているようだ。恵子はランドクルーザーの傍に立ったまま、耳を澄ませた。
「あー、どうも。太田でっす」
渡利と太田。二人の名前がようやく分かった。恵子は興味が勝つのを抑えきれずに、息を潜めた。太田の声は遠慮がちで、かなり抑えられている。
「せやねん、民宿にいてる。いや、今回の案件は微妙やったわ。殴り損や」
さっきニュースでやっていた事件の犯人は、恐らく太田なのだろう。恵子は耳から届く情報と記憶を少しずつ結び付けた。
「いや、何もなしではあかんやろ。ランクルとか、取引してるやつアテないか? おう、100系のディーゼルやと思う」
恵子は体を引いて、足音を立てないように後ずさった。うちの車の話をしている。太田の声が近づいてきて、ついさっきまで自分がいたランドクルーザーの辺りで止まった。
「ディーゼルやな。結構きれいやわ」
恵子は鞄からスマートフォンを取り出した。おそらく想像していた最悪のことが、起きようとしている。お構いなしに、太田の声は続いた。
「え? んなアホな。なんで目撃者残さなあかんねん。いい人らやけど、しゃあないわ。……せやなあ、渡利はまだ迷ってる。殺したくはないんやけど、そろそろ切りたいってのはあるね」
空気が揺れて、通話が終わったことを悟った恵子は、スマートフォンで行広にメッセージを打った。
『ごうとう』
送信ボタンを押したとき、目の前を影が覆ったことに気づいた恵子は顔を上げた。太田が立っていて、その表情は少しだけ紅潮していたが、目は冷静だった。
「買い物ですか?」
「はい」
恵子はそう言うと、スマートフォンを鞄に仕舞いこんだ。ランドクルーザーの前まで来たとき、太田の足音がついてきていることに気づいた。
太田は、位置関係を頭に呼び起こした。渡利は二階にいる。主人は一階だが、壁で隔てられている。声さえ上がらないようにすれば、今が絶好のチャンス。ランドクルーザーが出て行っても、元々奥さんが買い物へ出る予定だから怪しまれない。一度中へ戻って主人を殺す必要があるにしても、こうやって分断できている今の状況は理想的だ。仕事道具は持ち合わせていないが、素手でどうにかなるだろう。後ろから間合いを詰めたとき、恵子が体ごとくるりと振り向いた。その困ったような表情に、太田は困惑した。さっきまで背中から感じ取れていたはずの緊張が、その目からは全く読み取れない。
むしろ、ここに自分が立っているという状況を、待ち構えていたようだ。
「若い人は、何をさせてもかわいいねえ」
そう言うと、恵子は鞄から抜いたナイフを太田の喉に突き刺した。声を出せなくなった太田がそのまま後ずさって振り返ったとき、スープラの後ろから体を起こした行広が立ちはだかり、シャベルの尖った先端で腹を突いた。地面へ仰向けに倒れた太田は、喉から突き立ったナイフの柄を見下ろした。シャベルを地面に置いた行広は目の前に屈みこんで頭を掴み、持ち上げた。
「ド素人が。こんな辺鄙なとこに、ええカモがおるわて。思ったやろ?」
恵子は子供のように肩を揺すりながら、くすくすと笑った。
「うちらも、ここは偶然見つけたんよ。もう三十年も前か」
太田は気づいた。この二人は、民宿の本当のオーナーではない。行広は辺りを見回すと、少しずつ血が流れ出す首の傷口を見てから、太田の頭を離した。この民宿は、今の自分たちのような夫婦が切り盛りしていた。尾根にぽつんと光が灯っているのを見つけたのは、とにかく逃げるために全速力で山越えをしていたときだ。この二人が訪れたのと全く同じ理由で、一泊することを決めた。この二人と違ったのは、自分たちが筋金入りでもっと手が早かったということだ。その証拠に、扉が開くなり玄関で二人とも殺した。今思えば、若いころの自分たちは狂っていた。
「渡利、逃げろ……」
太田は、残された『相棒』の身を案じるように目を見開くと、かろうじて開いた気管を通じて呟いた。行広は足を振り上げると、太田の喉に刺さったナイフの柄を蹴り込んだ。
「わがのことだけ考えとけや、図体だけの犬ころが」
「口悪いやろ、これで相手が怒ったらすぐ殺すねん。ほんま、かなわん人やで」