逆説「新村八分理論」
村八分という制裁は今日その意義も必要性もなくなってきていることはすでに述べた。今更制裁を科してまで村落の機能を維持していくことはできないし悪くすると村落崩壊の原因になる。ならば村二分の救済精神が共同体の再生の鍵になるという一元論に帰す。一元論として取り上げるならば、もはや火災と葬儀の二分だけで済ますことはできない。村落機能の維持のために必要なことは全てやらねばならないだろう。
私はこれまでボランティアについて次のような見解を述べてきた。日本人のボランタリーマインドは村二分によるものでそれは非常時に限られ、日常的にはほとんど発揮されない質のものであると。だから非常時の村二分ではなく日常時の村八分として従来の制裁ではなく新規に救済精神を意味するものへと見直す必要があると考える。これが私のいう新村八分理論である。
4) 新「村八分理論」は救済のための論理であって、制裁のための論理ではないことを強調しておきたい。そういう意味では従来使われてきた制裁を意味する村八分は今後は死語として取り扱うことになる。同時に新理論は救済を意味する村二分からの目的置換であって、必ずしも互助・互酬や絆を志向するものではない。あくまでも救済を第一義として捉え互助精神等はそれに附随すべきものと考えるのがこの理論の主意である。
救済を志向する新理論はうまく機能するのか、これが専らの課題である。非常時の救済精神については、我々はその遺伝子を受け継いでいることが分かってきた。しかし非常時だけでなく日常時の救済事案に対してもその精神を発揮できるのかどうか、救済の必要性に関してはほとんどの人が認めていると仮定すればあとは住民参加のための動機づくりに入ることになる。
これが一番困難な問題かもしれない。「住民参加は重い足を引きずって歩く」行為でありその見返りは期待できないことが多いと言われてきた。しかし、いま我々がやろうとしていることは政治権力との対峙でもなく失敗によって挫折感を味わう類のものではない。しかも、救済精神は限定的であるにせよ遺伝子として保有している。
あとは住民合意形成のためのルールづくりが始まるが、発起人数の規模と発案の趣意書・規約の内容等十分な準備のもとで最終的に自治会総会に持ち込むのが手順である。条例の制定に似た集落の機能維持のための規約づくり、それも救済事業を中心とした規約の成立は一筋縄では纏まらないかもしれないが限界集落への衰退が懸念されるいまこそ待ったなしの第一に解決すべき課題であり住民参加のための動機合成がルール成立の鍵を握っていると考える。
5) 救済のための共同体の構築は我々のような限界集落において成功しなければ近隣集落への波及はむずかしい。なぜなら限界集落では救済の必要性は十分認識しているからである。その必要性が共同体の構築へ向かうかどうか、そのためには重い腰をあげてもらわなければならない。その成功の鍵が動機の一致であると言える。
村二分の救済精神を村八分の救済精神に転換させるためには非常時から日常的な救済にまで高めなければならない。すでに述べてきたとおり我々のボランティア精神を鼓舞しても全員の参加は得られないし継続してやることは困難である。また、参加への動機づけを金銭に頼れば金銭と救済が天秤にかけられ、救済が金銭に見合わなければ失敗する。
集落は本来地縁・血縁による共同体社会であったが、これが解体したあとの集落は契約社会に移行せざるを得ないしそれが自然の流れでもある。契約社会は個人と集落との契約によって成り立つ社会で、個人の救済が集落によって保証されることを意味し、同時に個人は集落に寄与することを約束するのである。
集落のために寄与するならば個人は救済されるという契約はこれまでの地縁・血縁社会における共同体と比べてどのような差異があるのか。それはこれまでの村八分という制裁が個人の救済という保証にとって変わった新しい形の村八分であり新・村八分理論と呼ぶべきものである。
集落の再生は欧米のようなキリストの愛に基づいたボランティア精神の仕業でもなければコミュニティトラストのような組織体によるものでもなく、我が国に根付いた救済精神を個人と集落との契約によってもたらそうとするものである。
6) 個人と集落(自治会)が救済契約を結ぶとは如何なることを言うのか。まず集落が契約の当事者となるためには法人格を有することが必要であろう。わが集落はすでにこの手続きを合併以前に完了しているが、まだの集落は法人化を進めることが先決である。法人としての集落はその規約(会則)によって組織化され各種行事等が運営されているが、規約には個人の救済規定が未だ明文化されていないはずである。規約の明文化の上で課題となるのは次の点に絞られるような気がする。
一つ目は集落の構成員に関する規定である。これまでは各戸の世帯主をもって構成されてきたが構成員の高齢化により組織自体が脆弱化する中で、今後は男女老若を問わず各戸から選ばれた代表者によって構成されるものとし、発言権・議決権などすべて平等な取り扱いとすることが求められる。また救済要請に対しては集落がこれに応ずると言っても実際は構成員によって行使されるので救済規定を構成員に周知徹底させることが必要となる。
二つ目は救済規定をどのような内容にすべきか、とくに日常的な出来事に対する救済内容はどの範囲まで含めるのかという点である。通常構成員の取り扱える範囲が上限になるだろうと思われるが、場合によっては専門家の指導・支援の下で構成員が実施できる範囲まで含めてもよいと思われる。集落・地区・市町村という階層的な組織体の中で日常的な救済は末端の集落が担うというのが最も有効的なやり方である。
三つ目が救済契約を結んだ際の契約金(保険料)に関する規定である。これは集落会計への寄付金の形でもよいが保険料の支払いが伴うことを規約の上で明文化する必要がある。市町村など上位組織からの補助金支給がなく自治会費の一斉値上げが不合理な場合の措置で保険料の一部が救済活動に使われることを前提にしている。
7) 集落を支える組織は自治会であり、集落の機能維持のために重要な役割を果たす存在である。その機能維持が困難な状況に陥っている主な理由が過疎化であり高齢化である。とくに高齢化率が50%を超えると限界集落などと呼ばれて今にも廃村の憂き目を見るような印象を与える。また過疎化は若者を中心に集落を出ていったあとの集落の状況を指しているが、この過疎化が限界集落に向かわせる要因であったことは間違いない。
ところで、わが集落を直視すると高齢化率はすでに50%を超えているが限界集落というイメージは湧かない。80歳になっても田畑で働き集落の運営にも支障なく参加している大勢の構成員を見ていると、これまでの65歳を基準にした各種の指標は実態にそぐわない方向に向かっており早く見直したほうが賢明である。また、高齢者一人暮らしや夫婦二人暮らし宅では働きに街へ出ていった子供達が親元へ戻ってくるケースはほとんど見当たらないのが実情である。
作品名:逆説「新村八分理論」 作家名:田 ゆう(松本久司)