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田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
novelistID. 51015
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逆説「新村八分理論」

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それにも拘わらず共同体の再生なくして地域社会の存続が危うくなっていることは事実であり、新しい共同体構築に向けての試行をさらに進展させなければならない。この試みの一つが官民パートナーシップによる「協働体」の構築である。この協働体は「共同体」構築への第一歩にあたるが、将来的には民主体の共同体社会へ止揚されることが期待されている。
しかし村八分のような私的制裁が意味を失ったいま、どのようにして地域住民を結束させ地域の機能や良好な環境を存続させることができるのか。ボランティアの役割が重視されるものの、わが国のように「村二分」の精神だけがボランティアを支えている現状ではメンバーの離合集散により組織運営は頓挫しかねない。かつての村八分に変わる私的制裁を含まない新しいルールの構築が必要である。どのような私的ルールなら合意形成に持ち込めるのか、そのためには条例や法律の支援が必要となるが、改めて英国の法整備に倣うところが大きいと思われる。

(7) 自治会再生に向けて
社会福祉協議会やNPOの活動が集落の課題に十分応えられない以上、集落独自で解決せざるを得ないという状況がどの集落においても見られる。もとより集落には自治会組織があってこれまで地域の課題を検討しながら対応してきた経緯がある。自治会は集落の機能維持に最も重要な機関であり自治会の運営如何がこれを左右してきたと言える。
しかし個々の田んぼが高齢のため耕作されずに放置されて隣接する農地に影響を与えるとか、集落の景観を阻害するというような問題はこれまで自治会が対応すべき事項ではなかった。個人の問題は私的に解決するのが当然であり実際そのように取り扱われてきたのである。
このように公私の区別が明瞭になされてきたという事実は集落に居住する者の長きに渡る習慣がそうさせてきたのであって、その長きに渡る習慣がもはや維持できない状況にあり、今後一層その傾向が顕著になることが予想される今こそ、自治会のあり方を問い直し個別の課題に対応できるよう再生すべき時期が来ているように思う。
自治会の合併や自治会連合会の強化に留まらず自治会の使命や良好な組織運営を熟慮した上でどのように再構築すればかつての村落共同体に見られた住民の結束や互助互酬のサービスが得られるのか、そのために必要ならば行政の財政的支援のみならず権限の一部委譲を含めて関係機関と十分協議しながら住民の合意形成を図ること以外に限界集落の生き残る道はないように思える。

(8) 逆説「新村八分理論」

1) わが集落の高齢化率はすでに50%以上に達しているが、限界集落と呼ばれてもこれまで問題になるほど困った状況はなく比較的穏やかな集落であった。しかし、ここにきて何やら不安な気配が漂い始めたのである。世間では一般に認知症と呼ばれる症状は単なる物忘れに留まらず、時には統合失調症に変貌して周りの人々を振り回す行動を取ることがある。
また、あれほど耕作等に専念していた人がやることそれ自体を忘れたのであろうか、バタッと作業を放置してしまう現象は認知症によるものと単純に割り切るのではなく高齢化による心身の衰えに原因を見いだせるのかもしれない。今後ますます不測の困難な状況が出てくることが分かってくるにつれて集落の運営をこれまで通りにして置いていいのかという問題に早急に取り組まざるを得なくなっている事情がある。
さて、こうした課題にどう取り組んでいけばいいのか、答えはひとつしかないように思える。たとえ当人を施設に入所させたとしてもそれで集落の問題が解決したわけではない。行政や福祉法人等に依頼してもそれをやれる人材が極度に不足している現状からは十分な解決を期待することができない。やはり集落の組織を構成しているメンバーが自主的にやる以外に道はない。
いわゆる共同体の再構成が求められていると考えられるが、これまで別項で述べてきたように共同体の存立は村八分のルールの存在にかかっている。しかし、村八分のルールは戦後徐々に解消されてもうどこにも存在しないはずである。今なお残っているのは村二分のルールと見倣される非常時における助け合いの精神である。この精神が東日本大震災の時に発揮されいわゆる「絆」と後に呼ばれるようになったボランティア精神を指している。だとすればこの村二分のルールを新しい形に変えて集落の規範として明文化することによって村落共同体の再生を図る以外に方法がないように思われる。

2) 村二分の新しい理論を考えるとき、山口で起こった悲惨な事件を思い起こさずにはおられない。「火つけして煙よろこぶ田舎者」大都会の川崎市から年老いた親の面倒見るために郷里に戻ってきた彼は、親の死後殺人放火により検挙されるに至る。しばらく山中で身を潜めていたが死にきれなかったのであろうか、生きていればこそ何がそうさせたのか動機の解明が待たれる。
余談は許されないので勝手な憶測は避けたいが彼の行為は村二分を考える上で重要な示唆を与えてくれるものと思われる。一般的に村二分は村八分によって村から断絶された家が火災や葬儀に限って断絶を免れる制度であるが、村八分のルールが今日ではほとんど消滅したのに対して村二分のルールは今なお根強く残っていると見るのが私の持論である。
村八分はムラがイエに対して行う隔絶であるが同時に村民がイエの構成員に対して行う隔絶でもある。現在のように個人主義や自由主義が讃えられる社会にあっては村八分はもはや意味の無い存在と化したが、もともと地縁血縁で結ばれたコミュニティ社会では村八分のルールが村落の組織を維持するために重要な役割を果たしてきたのは言うまでもない。
だから村落共同体の再生を考えるとき村八分ではなく村二分のルールの意義を再考すべきであると言ったのは今後ますます集落維持が困難な状態へと進みつつある非常時における協働体制の構築のほかに、我々の血中にDNAとして受け継がれている災害時における互助と規律遵守の精神が今なお健全であり、その再生と活用を図ることが重要だと思うからにほかならない。

3) 村八分の理論、すなわち「村八分」と「村二分」における「制裁と救済」という構図は二元論に基づくものでありその中間状態は存在不可とする論理である。八分と二分の対立関係は日常的に制裁が行われるが非常時には救済が行われるという「日常と非常」の関係に対応するものと考えられる。
かつて哲学者西田幾多郎氏がキリスト教は制裁と救済が厳格に行われることを指してこの神を信じることができると言ったことがあったし私自身もそのように考えていた時期があった。地獄と天国に死後の行き先を決めるキリスト教と誰もが極楽浄土に行けるとする仏の教えには根本的に論理の差異が認められる。どちらが正しいかという問題ではなく村落共同体の再生に相応しい論理はどうあるべきかという議論に帰すことができる。