小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」
田 ゆう(松本久司)
田 ゆう(松本久司)
novelistID. 51015
新規ユーザー登録
E-MAIL
PASSWORD
次回から自動でログイン

 

作品詳細に戻る

 

逆説「新村八分理論」

INDEX|1ページ/4ページ|

次のページ
 
逆説「新村八分理論」

(1) 絆と震災ガレキお断り
絆という言葉が東日本大震災からしばしば使われるようになった。絆とは断ちがたい人と人の結びつきを言う。東日本大震災で見られた数々の支援は絆と呼ぶにふさわしい行為だと感じられたかもしれない。しかしこれは幻想にすぎない。それを端的に物語るのが震災ガレキの受け入れ拒否である。
岐阜県においても各市町村や一部事務組合でガレキの受け入れが検討されたが住民の理解が得られず断念せざるを得なかった。当たり前のことである。受け入れを拒否したことについて絆にもとる行為であるなどという考えは的が大きく外れている。
大震災に対する個人や各団体からの多額の義援金の拠出や現地における様々なボランティア支援と震災ガレキの受け入れとは人々の精神的構造が異なるからである。私はそれを「村八分理論」で説明できると考える。村八分とは端的に言えば村落共同体を支えてきたルール違反に対する制裁のことである。この村八分の理論化を試みたので「(8) 新・村八分理論」を参照されたい。

(2) ボランタリー社会は到来するのか
ボランタリー社会とは地域における多様なニーズや課題を充足しまたは解決するために自発的に参画したボランティアによって組織され運営される活動体が地域社会に存在し、重要な役割を果たしていることを指す。つまり地域社会における中核的な活動母体がボランティアであると言ってもよい。
そういう社会が到来するのか、期待はされているが決して到来しない。かつて存在し地域社会の諸活動に多大な貢献をしてきた村落共同体は戦後の民主主義・個人主義のもとでことごとく崩壊した。自由主義歓迎の渦の中で個人や家族を束縛してきた(かのように見えた)村落共同体は廃止される運命を辿った。この共同体の崩壊により互助互酬のルールを支えた村八分の私的制裁も終焉し。その奉仕の原動力がその後のボランティア精神に移行することはなかった。
欧米におけるボランティア精神は筋金入りである。その原動力はキリスト教の教えによる。キリストは信ずる者はどこまでも救済するがそうでないものは地獄に落とす厳格な神である。なみあみだぶつと唱えれば誰もが極楽浄土にいける仏の教えとは相容れない。このキリストの愛が信者に対して隣人愛を強く求めるのである。

(3) 村八分理論化の試み
村落共同体を支えたのは村八分という私的制裁であると書いた。と同時にそれは共同体の精神的構造を規定するものであった。そして欧米のボランティア精神を支えているのがキリスト教の隣人愛であると言った。だから村八分という制度がなくなったいま、わが国のボランティア精神は衰退したと言わざるを得ない。加えて今なおボランティア精神が健全であるという見方は幻想に過ぎないとも言ってきた。
1995年の阪神淡路大震災を指してボランティア元年と呼ばれている。また今般の東日本大震災でも絆と呼ばれるボランティアによる様々な支援が注目された。しかしこれらは村落を支えてきた共同体精神とは構造をことにする。その理由こそ村八分という私的制裁が崩壊したことによっていると考える。
それではあの絆とまで崇められた行為は何だったのか。それは「村二分」と呼ばれるものではないか。村八分にあってもなおその者に付与される二分の行為、すなわち火事と葬儀に対する救済精神である。この村二分が村八分制度が崩壊しても今なお日本人の血の中にDNAとして存在し続けている。これがあの大災害時に現れたボランティア精神であったと見ることができる。だから村八分にあたる震災ガレキの受け入れは拒否されてしかるべきものであった。

(4) 地域の諸活動の意義
わが町には地域委員会、地域審議会、地域ふくし懇談会など地域が頭につく会合がいくつかある。地域ふくし懇談会は社会福祉協議会主催で年1回住民の要望等を聞くために開催される。意見や要望を聞くだけで何も実施しないことを前提に、社協の活動実績を関係機関に報告するためだけに行われている。人畜無害というよりも住民愚弄に近い。
地域審議会は行政が計画している各種事業に対して地域からの意見や要望を聴取するために行われる。意見を具申したとしてもそれらのほとんどが懐柔されるか、多数決によって無視される。アーン・スタインの住民参加の階梯で言えば形式参加型以下に属する。行政による詐術としかいい様のないことがまかり通っているのが現実だ。
さてこの中でまともと思えるものが地域委員会と称するものである。地域の様々な課題に応えるためには行政によるサービスだけでは対応できない。第一そんな予算がどこにもない。予算がないので人員を減らすから今度はサービスの担い手がいなくなる。悪循環を断ち切るためには地域にお任せするしかないが、住民が対応できることは限られている。これまで行政が渋ってきた理由がそこに存在する。そこで編み出した戦術が地域のボランティアと協働する組織またはそれを運営する地域委員会ということらしい。しかしこれを現実に動かすには困難な問題が立ちはだかっている。

(5) 地域委員会 机上の空論とならぬために
地域委員会は官民パートナーシップによる地域振興・発展を企図したものである。この「民」の主体がボランティア組織ということであるが、すでに述べたように現在のボランティア精神は「村二分」として我々のDNAに刻印された災害ボランティアにのみ発揮される構造であるために地域の様々な課題に対応できるような代物ではない。つまりボランティアを当てにするほど頼りにならぬものはないのである。
地域プランナーであった20年以上も前のこと、すでに官民パートナーシップのあり方を模索していた「私たち」は欧米のシステムを研究するなかでグラウンドワークトラストやCDC'S(別掲参照)について検討してきたが、その核になる組織はNPO(または会社組織)でなければ組織全体を起動させることができないことがわかってきた。つまり運営の責任所在が明確でなければ一部にせよ民サイドへ権限と予算を付与することができないはずだ。
このNPOを核としてその周辺にさまざまなボランティアが参画する体制が官民パートナーシップの基本形であるが、我が国のボランティアは欧米のそれと異なり、志願者を結束させ安定して活動させるべき「タガ」がない。つまり村八分の精神が機能しない現在、離合集散を繰り返す存在にしか過ぎない。
それでもなおボランティア組織が何かをなし得るとすればそれは稀に見るリーダーシップの下で極めて限定された事柄にしか過ぎない。地域の課題を背負って万能を発揮する体制とはほど遠いものである。
(文中の私たちとは、関西に拠点を置いたREPLU「地域計画土地利用」研究所のスタッフのことで、私が所長を務めていた)
(6) 新「村八分の理論」化へ
かつての村落共同体を支えてきた村八分のルールや私的制裁が崩壊したと思われる今日の地域社会において、同じような機能をもつ共同体の再構築は困難であるどころかもはや意味がない。すなわち村八分のような「私的制裁」は個人主義・自由主義の浸透の過程で嫌悪され、同様に「社会的追放(ostracism)」もすでに疎遠社会の中では全く意味をもたなくなってきている。