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減算法の都合

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 といっても、いまさらながらというほど経験があるわけではない。
 それでも、そんな風に感じるのは、
「思春期への突入時期が、遅かったからなのかも知れない」
 ということであった。
 そんなことを考えていると、不思議と女性にモテるというもので、それこそ、
「オンナに不自由はしない」
 という高校時代だったのだ。
 それこそ、
「青春時代」
 というものが、
「性春時代だった」
 といってもよかったであろう。
 だが、最初の女性のインパクトが強すぎて、
「お姉さん系しか、抱けなくなった」
 という思いがある。
 これは、中学時代に、友達が言っていたセリフではないか。本当なら、
「恥ずかしい性癖」
 なのだから、
「あまりまわりの人にいうものではないのかも知れない」
 しかし、京極は、そのことを恥ずかしいとは思わなかった。
「性癖、大いに結構。恥ずかしいと思うから、恥ずかしいんだ」
 と思っていた。
 恥じらいというものは、
「いってはいけないタブーだ」
 と言われるから、余計に知りたくなるものだ。
 隠そうとすればするほど、気になってしまう。どちらかというと、その心理を巧みに利用することで、人間は、女性を求めるのかも知れない。
 動物であれば、そんな感情などなくとも、本能によって、発情期がやってきて、子供ができる。それによって、
「種の保存」
 が保たれるのだ。
 彼らには、人間のような、
「家」
 という概念はないだろう。
 もちろん、親子の関係というのはあるだろうが、兄弟という意識はあるのだろうか?
 ツバメの巣のように、巣の中で、たくさんの子供の中の一匹だと思うと、そのまわりが兄弟であることを悟るのだとすれば、大人になって、
「一匹立ち」
 をした時、自分の兄弟が飛んできても、
「自分の兄弟だ」
 と分かるのだろうか?
 そういえば、以前のドラマで、
「子供を事情があって捨てなければいけなかった母親がいて、捨てた子供と何十年ぶりかの再会を果たしたとして、その時、その子は、目の前にいるのが母親だと人に聴いて知っていたとしても、母親は何も聞いていない」
 という場面があった。
 その時、その子が、覚悟と決心を持って母親に逢いにきたのを、母親が分からなかったといって、泣いているのを見て、それを言いに来た人がいったのだ。
「母親なら、数百人いる中からでも、自分の子供だったら分かるはずでしょう?」
 というのだ。
 そのセリフを聴いて、ものすごい違和感を感じたのは、京極だけだっただろうか?
 確かに、お腹を痛めて産んだ子だとはいうが、子供の頃に生き別れて、赤ん坊の頃しか知らないのに、成長した子供を、いくら親子だからといって、分からなければならない理由がどこにあるというのだ。
 確かに、子供も大変な思いをしただろうが、親には親で、やむを得ない事情があったのかも知れない。
「若気の至りでも、許せない」
 という場合を除いて、仕方がないということだってあるだろう。
 金銭的な面、精神的な面で、一緒に暮らせなくなる場合は、今の世の中では、無限といっていいほどに理由はあるだろう。
 もちろん、許されないことも無限にあれば、
「許してあげてもいいのではないか?」
 と、他人だから言えることもあるだろう。
 世の中、
「一歩間違えれば、相手と同じ運命をたどるとも限らないのだ」
 それを考えると、理不尽なことも、無限にある。
 それなのに、許せないことだってたくさんあるだろうし、許してあげてもいいことだってたくさんある。
「そう思うと、人間、一寸先は闇だ」
 という、ネガティブな考えになっても、仕方がないだろう。
 離婚が多い原因として、肉体的にも、そして精神的にも、
「仕方がない」
 と感じるのは、どうしても、
「飽き」
 というものが来ることだった。
 人間、同じものをずっと食べていても飽きるのは当然のこと、
「学生時代、毎日学食で、カレーばかり食べていると、少しすると、カレーを見るのも嫌だ」
 という人も多いことだろう。
 最初は好きだったはずのカレー、それを毎日食べていると、1カ月もしないうちに見るのも嫌になる。
 ただ、この、
「飽き性」
 という性格は、人それぞれで、人によっては、まったく飽きの来ないと思う意図もいるだろう。
 しかし、ほとんどの人は、すぐに飽きてしまい、飽きると、見るのも嫌になるというのも仕方のないことなのだ。
 それが、嫁さんとなると、毎日一緒にいるわけで、飽きが来るのも仕方のないことであろう。
 そしてもう一つ考えられることとすれば、人間の欲の問題である。
 付き合っている時は、
「本当に好きだ」
 と思っているから、
「離したくない」
 と必死に思い、
「毎日でも抱いていたい」
 と感じ、不思議なことに、その時は飽きを感じないものだ。
 いや、感じているのかも知れないが、
「失うかも知れない」
 と思うのが怖くて、必死につなぎとめておきたいという気持ちがあるからなのか、毎日でもセックスをしても、その身体に対しての感情が飽きに繋がることはないのだ。
 要するに、
「まだ、自分のモノでない時に必死につなぎとめておきたい」
 と思うのに、
「結婚してしまうと、夢にまで見たものが手に入って、満足してしまったことで、それ以上の悦びがないという有頂天に達してしまったのだ。
 そうなると、後は下しか見えない。
 下を見ると、今まで見えてこなかった、彼女の欠点や短所が目立ってくるのだった。
 それを感じると、
「あれ? こんなはずではなかった?」
 と思うと、彼女に対しての見る目が変わってくる。
 性格も身体も最高だと思っていたものが、そうではなくなってくると、自分が求めてやまなかったものを手に入れたことで見えてきた、
「限界」
 というものが、今度は虚しさを運んでくるのだった。
 それは、まるで、セックスの後に訪れる、
「賢者モード」
 のようなものである。
 しかも、この感覚は、男だけに訪れるものだ。セックスを終えた後の男女というのは、その身体に残った感覚は、同じなのかどうか分からないが、感じる思いは、まったく違うものなのだ。
 ただ、お互いに、結婚を頂点にして、次第に相手の欠点が見えてきたり、飽きが生じてくるようになったりと、どんどん、関係は悪化していくといってもいいだろう。
 それが、いわゆる
「減算法」
 となり、決して元の戻ることのない気持ちは、時間とともに増えていく。
 そういう意味では、
「離婚する夫婦というのは、最初から離婚は決まっていて、後は、時間の問題だけなのではないか?」
 と思えるのだ。
 結婚してすぐの新婚さんには、なかなか理解できるものではないのかも知れないが、そもそも、
「成田離婚」
 などという言葉があるくらいで、最初から、ダメな夫婦だっているようだ。
 そういう意味で、結婚というものは、
「減算法だ」
 といってもいいだろう。
 自分の人生の考え方、あるいは、精神状態や肉体で感じること、さまざまな減算法があるに違いない。

                 大団円

 そういう意味で、
「減算法」
作品名:減算法の都合 作家名:森本晃次