輪廻転生のバランス(考)
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年1月時点のものです。いつものことですが、似たような事件があっても、それはあくまでも、フィクションでしかありません、ただ、フィクションに対しての意見は、国民の総意に近いと思っています。
いくつある?
今に限らず昔からあるものに
「ネット通販なるもの」
であったり、テレビなどであるものとして、
「いろいろな鑑定をしてくれる」
という番組があったりする。
正直、そのどちらも、
「何が楽しいというのだ?」
と感じていることも多い。
特に言えば、ネット通販などでいえば、
「確かに便利でいい」
というのもあるが、昔のネットがなかった時代から、テレビで宣伝して、
「お電話お待ちしています」
などというのを音楽につけて流して、印象付けている番組もあった。
今では、いろいろなところのネット通販が増えてきて、テレビだけではなく、配信動画でもやっていることが多いだろう。
少し前であれば、まぁ、今もそうなのだが、
「名物社長」
のような人が出てきて、自分から商品を売るということを、率先してやっている。その社長が物まねされたり、人気番組で取り上げられたりすると、結構、それに反応する客も多いだろう。
一時期、
「依存症」
というものが大きな問題になった時期があったりしたが、それも、
「ギャンブル」
にしても、
「アルコール」
にしてもそうだが、この、
「買い物依存症」
というのは、他二つと、
「似て非なるもの」
とでもいうべきで、ある意味、
「決して、一緒くたに考えてはいけないものではないか?」
と考えるようになった。
確かに、アルコールなどというのは、それだけには、効果は発揮しないが、自分の中にある何かを引き出すという意味で、
「アルコールの力を借りる」
という意味で、起爆剤のようなものではないだろうか?
「ギャンブル」
「買い物」
というのは、さらに能動的で自分の中にある、
「楽しさ」
という概念を引き出すことを、ギャンブルにしても、買い物にしても与えてくれる。
だから、アルコールは、
「自分の中に潜在しているものを、直接刺激する」
ということであり、買い物や、ギャンブルは、
「楽しさ」
という概念を引き出すために、能動的な刺激をまわりから、埋めようとでもいうような感覚なのではないだろうか。
ただ、どの依存症も、
「帯に短し、たすきに長し」
ということであり、
「細かいところはカバーしているのだが、全体を把握しているわけではないので、他に全体を把握するための、依存症があるのではないか?」
と思うのだ。
普通、依存症というと、あまりいいイメージには取られない。
「自分が何かから逃げるために、依存する」
という意識があり、行動がすべて、自分の意識よるものではないということで、決してよくは言われるものではなかった。
そんな依存症において、
「依存しなければいけないというほど、何かから逃げているのではないか?」
と考えられる。
「では、何から逃げているのか?」
ということを考えると、逆に、
「逃げているというよりも、自分が何かを追いかけたいという意識があるのに、何について追いかけようとしているのか、それが分からない」
ということである。
だが、今の世間で言われている、
「依存症悪者説は、本当にその通りなのだろうか?」
ということである。
それを考える時、
「依存症というのは、必要悪だ」
と言われていたような話を思い出していた。
「ストレスというのは、定期的に解消しないと、ため込んでしまえば、病気になってしまう」
と言われている。
だから、ストレスを溜めないようにするには、
「好きなことをする」
あるいは、
「気分を発散させる」
さらには、
「自分と同じ苦しみをまわりの人に味合わせる」
などという、聞こえは悪いが、あくまでも、
「自分の中のストレスをなくす」
という意味では、方法はいくつもある。
だが、これらの方法は、ある意味、
「すべて同じことのようにも思える」
というのは、
「ストレスの解消にしても、何にしても、結局できること、人間の考えること、それらには限界があり、あくまでも、何をしようとも、最後には、一つにまとまってしまう」
ということであろう。
そもそも、時間、次元というものは、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
と言われている。
実際に、それは考えてみれば、理解できるところではある。
ただ、人間の場合は、その、
「無限の可能性」
というものを理解し、関係のないものは、考えないということができる能力を持っている。
それが、他の動物にも存在していて、ただ、他の動物は、
「本能」
というものが発達していて、考えることができないかわりに、本能で危険などを感じ取り、うまく切り抜けているのだ。
考えてみれば、動物は、今まで見たこともない動物。例えば、自分の天敵となるべく動物を、誰にも教えてもらってもいないのに、感じ取り、
「襲われる方は、必死で逃げ、襲う方は、必死に捕まえようとする」
ということである。
これが、いわゆる、
「自然界の摂理」
というもので、
「弱肉強食」
という、
「食べる方、食べられる方」
ということで、その生態系がハッキリしているから、ここまで世界が成り立ってきたのだ。
もし、食べられる方が、強くなり、天敵から食べられなくなったらどうなるだろう?
確かに食べられる方は、食べられなくなったことで、たくさん増える。しかし、逆に食料としている方は、食べるものがなくなるので、餓死して死んでしまい、どんどん数が減ってきて、断絶してしまうだろう。
では、食べられる方が食べられなくなったからといって、
「よかった」
と手放しに喜べるだろうか?
「彼らの食物になるものだって、限りがあるから、今度は食糧不足で、彼らもどんどん減ってくる」
ということになる。
「では、食べる方を、食料にしていた方は?」
ということになると、今度は、食べる相手が減ってしまうのだから、また食料がなくなる。
ということで、一つの生態系が崩れてしまうと、すべてのバランスが崩れ、どんどん、絶滅種が増えてくるということになる。
そういう意味で、
「バランスというものは、難しいものなのだ」
ということになるのだ。
いくつある?
今に限らず昔からあるものに
「ネット通販なるもの」
であったり、テレビなどであるものとして、
「いろいろな鑑定をしてくれる」
という番組があったりする。
正直、そのどちらも、
「何が楽しいというのだ?」
と感じていることも多い。
特に言えば、ネット通販などでいえば、
「確かに便利でいい」
というのもあるが、昔のネットがなかった時代から、テレビで宣伝して、
「お電話お待ちしています」
などというのを音楽につけて流して、印象付けている番組もあった。
今では、いろいろなところのネット通販が増えてきて、テレビだけではなく、配信動画でもやっていることが多いだろう。
少し前であれば、まぁ、今もそうなのだが、
「名物社長」
のような人が出てきて、自分から商品を売るということを、率先してやっている。その社長が物まねされたり、人気番組で取り上げられたりすると、結構、それに反応する客も多いだろう。
一時期、
「依存症」
というものが大きな問題になった時期があったりしたが、それも、
「ギャンブル」
にしても、
「アルコール」
にしてもそうだが、この、
「買い物依存症」
というのは、他二つと、
「似て非なるもの」
とでもいうべきで、ある意味、
「決して、一緒くたに考えてはいけないものではないか?」
と考えるようになった。
確かに、アルコールなどというのは、それだけには、効果は発揮しないが、自分の中にある何かを引き出すという意味で、
「アルコールの力を借りる」
という意味で、起爆剤のようなものではないだろうか?
「ギャンブル」
「買い物」
というのは、さらに能動的で自分の中にある、
「楽しさ」
という概念を引き出すことを、ギャンブルにしても、買い物にしても与えてくれる。
だから、アルコールは、
「自分の中に潜在しているものを、直接刺激する」
ということであり、買い物や、ギャンブルは、
「楽しさ」
という概念を引き出すために、能動的な刺激をまわりから、埋めようとでもいうような感覚なのではないだろうか。
ただ、どの依存症も、
「帯に短し、たすきに長し」
ということであり、
「細かいところはカバーしているのだが、全体を把握しているわけではないので、他に全体を把握するための、依存症があるのではないか?」
と思うのだ。
普通、依存症というと、あまりいいイメージには取られない。
「自分が何かから逃げるために、依存する」
という意識があり、行動がすべて、自分の意識よるものではないということで、決してよくは言われるものではなかった。
そんな依存症において、
「依存しなければいけないというほど、何かから逃げているのではないか?」
と考えられる。
「では、何から逃げているのか?」
ということを考えると、逆に、
「逃げているというよりも、自分が何かを追いかけたいという意識があるのに、何について追いかけようとしているのか、それが分からない」
ということである。
だが、今の世間で言われている、
「依存症悪者説は、本当にその通りなのだろうか?」
ということである。
それを考える時、
「依存症というのは、必要悪だ」
と言われていたような話を思い出していた。
「ストレスというのは、定期的に解消しないと、ため込んでしまえば、病気になってしまう」
と言われている。
だから、ストレスを溜めないようにするには、
「好きなことをする」
あるいは、
「気分を発散させる」
さらには、
「自分と同じ苦しみをまわりの人に味合わせる」
などという、聞こえは悪いが、あくまでも、
「自分の中のストレスをなくす」
という意味では、方法はいくつもある。
だが、これらの方法は、ある意味、
「すべて同じことのようにも思える」
というのは、
「ストレスの解消にしても、何にしても、結局できること、人間の考えること、それらには限界があり、あくまでも、何をしようとも、最後には、一つにまとまってしまう」
ということであろう。
そもそも、時間、次元というものは、
「次の瞬間には、無限の可能性が広がっている」
と言われている。
実際に、それは考えてみれば、理解できるところではある。
ただ、人間の場合は、その、
「無限の可能性」
というものを理解し、関係のないものは、考えないということができる能力を持っている。
それが、他の動物にも存在していて、ただ、他の動物は、
「本能」
というものが発達していて、考えることができないかわりに、本能で危険などを感じ取り、うまく切り抜けているのだ。
考えてみれば、動物は、今まで見たこともない動物。例えば、自分の天敵となるべく動物を、誰にも教えてもらってもいないのに、感じ取り、
「襲われる方は、必死で逃げ、襲う方は、必死に捕まえようとする」
ということである。
これが、いわゆる、
「自然界の摂理」
というもので、
「弱肉強食」
という、
「食べる方、食べられる方」
ということで、その生態系がハッキリしているから、ここまで世界が成り立ってきたのだ。
もし、食べられる方が、強くなり、天敵から食べられなくなったらどうなるだろう?
確かに食べられる方は、食べられなくなったことで、たくさん増える。しかし、逆に食料としている方は、食べるものがなくなるので、餓死して死んでしまい、どんどん数が減ってきて、断絶してしまうだろう。
では、食べられる方が食べられなくなったからといって、
「よかった」
と手放しに喜べるだろうか?
「彼らの食物になるものだって、限りがあるから、今度は食糧不足で、彼らもどんどん減ってくる」
ということになる。
「では、食べる方を、食料にしていた方は?」
ということになると、今度は、食べる相手が減ってしまうのだから、また食料がなくなる。
ということで、一つの生態系が崩れてしまうと、すべてのバランスが崩れ、どんどん、絶滅種が増えてくるということになる。
そういう意味で、
「バランスというものは、難しいものなのだ」
ということになるのだ。
作品名:輪廻転生のバランス(考) 作家名:森本晃次