パンデミックの正体
別に子供が悪いことをしたわけでもないのに、一人の女に操られることで、結果、
「自分の子供を餓死させてしまった」
ということになるのだった。
確かに母親は洗脳されていたのかも知れないが、結果、罪に問われたのだ。精神鑑定を受け、
「判断能力があった」
ということで、普通に裁判を受けたのだ。
さらにひどいのは、その、
「悪魔のようなママ友」
も、裁判を受けたが、最後の最後まで、
「すべて母親のせいだ」
と言い張っただけに、恐ろしい女だということである。
そんな、
「ママ友」
などという言葉で表すことのできないような、
「悪魔」
がいる時代であったが、素直に育つ子供だって、まったくいないわけではない。
小さい頃から、この町医者に通院してきて、小児喘息の気があった頃からお世話になっている先生のことを、父親のように慕っている女の子がいた。その子の名前を、
「鈴村美亜」
と言った。
彼女は、普段からいつも一人でいる子だった。両親が共稼ぎというのは、今の時代珍しいことでもない。しかも、母親は、夜も週に二度ほど、スナックに勤めているので、ほとんど家にいないといってもいい。
小学4年生くらいの頃から、美亜は家事の手伝いができるようになったので、
「夜も出掛けられる」
ということで、母親は、週2回のスナック勤めを始めたのだ。
小児喘息も、成長するにつれて楽になって行ったので、だいぶ母親としても安心だ。特に主治医として行きつけの病院が見つかったのはよかった。何かあれば、その町医者に行けばいいからであった。
町医者は、石田病院といい、基本的に院長先生が一人で診ていた。
看護婦さんが二人体制であったのだが、そのうちに、院長先生の息子さんが、戻ってきたということで、診療にも当たることで、だいぶ、病院も楽になったようだ。
息子さんというのが、年齢として、そろそろ30代に差し掛かるくらいの年齢で、息子さんが帰ってくるということで、病院を少し大きくして、入院患者も、数人であれば、受け入れられるようにしたようだった。
息子さんは、大学病院に勤めていたということだが、インターンのような仕事だったという。元々、親の病院を継ぐということは、決定事項で、子供の頃からそのつもりでいたので、今のところ、
「順風満帆」
と言ったところであろうか。
そういう意味で、院長先生としても、
「自分の代で病院を終わらせることがないだけよかった」
と思っていることであろう。
この病院を、
「イシダ病院」
という。
もちろん、苗字は漢字の、
「石田」
なのだが、
「インパクトがあっていいだろう」
ということで、先代、つまりは、今の院長のお父さんが決めたようだ。
そのお父さんがこの病院の創始者だということで、一番苦労をしたのは、創始者である先代だったという。
というのも、昔はそれこそ、町医者しかなかったので、それなりに繁盛もしていたのだろうが、インフラの整備や、街の発展が充実してくると、近くに大きな病院が建ち始め、どうしても患者はそちら取られるということが多かったようだ。
それまでは、学校や、近くの工場の健康診断など、一手に引き受けていたものが、大病院に取られてしまい、思うような経営ができなくなってしまった。
しかし、町医者の強みというのは、
「融通が利く」
ということである。
逆にいえば、大きな病院では、
「融通が利かない」
つまり、救急病院でもない限り、診療時間以外は、診てはくれないからだ。
診てくれたとしても、当直の先生がいるだけで、下手をすれば、専門外の先生がいるだけの時もある。
確かに、医者になるためには、いろいろな科を、総合的に勉強しているのだろうから、分からないはずはないのだろうが、どうしても、当直というと、
「ただの当番ということになるのか、面倒なことはあまりしない」
と言われるようになった。
「ただの風邪のようですね。お薬だけでも出しておきましょう」
と言われるだけで、ロクな治療もされなかったり、ちょっとした治療だけで、深夜料金を取られて、患者側も、何か釈然としない気持ちになったりすることも多かったようだ。
「昼間は、ニコニコ診療している先生も、当直になると、ブスっとして、何か嫌だわ」
と言われる医者も多い。
そんなウワサというのは、広がるのは早いもので、
「それまでのイシダ病院の方が、親身になって、診てくれたわ」
と、時間外に駆け込んでも、嫌な顔一つせずに、診てくれた。
受付の人がいないということで、とりあえずのお金を置いておかなければならないという不便さはあったが、それでも、大病院の対応とはまったく違う。
向こうは、当直の時間としてインターンがいるのに、診療を受けるまできつい状態で、平気で待たされることもあった。
しかし、時間外であっても、イシダ院長は、決して嫌な顔もせず、患者を待たせたりもしない。大病院の医者は、治療を事務的に行っているのに対し、イシダ先生は、いかにも患者のためを考えてくれている。
「ここ、きつくないですか?」
と絶えず、触診をする時でも、相手のことを思っての治療は、ちょっとしたことであっても、精神的に心細くなっている患者にとっては、ありがたいことであった。
「本当にイシダ先生はありがたい」
といって、涙を流す患者もいたくらいで、医者にとって、これほどのやりがいを感じさせられることはない。
大病院のインターンには、一生分かることではないだろう。そんな人が、そのままどこかの大学病院でずっと医者として雇われていくのか、それとも、親の病院を継ぐことになるのか分からないが、
「一生、ずっとこのままだったら、もう二度と、こんな医者に罹りたいとは思わないだろうな」
と、患者の方も考えるに違いない。
大型病院ができても、次第に、患者が、また町医者の戻ってくる。
この傾向は、今も昔も変わりない。
大型商業施設が郊外の方にできたということで、当初は、皆そっちに買い物に行く人も多かったが、しかし、それも最初だけだった。
できた最初の頃は、物珍しさで、平日休日問わず、賑やかであったが、数か月もしないうちに、
「休日はそれなりに人も多く、駐車場も満車になったりしたが、平日は、夕方の買い物の時間以外は、ほとんど客がおらず、下手をすれば、従業員の方が圧倒的に多いという状況になっている」
というのと同じだった。
駅前商店街は、かなりの痛手ではあったが、一定の固定客がついている店も何軒があった。
半分くらいの店は、行き詰ってしまい、店を閉めたところも多かったようだが、惣菜屋などのようなところは、結構賑やかだったりする。
もちろん、以前のような活気がないのは、閉まっている店が多いのでしょうがないが、
「これも時代の流れか」
という諦めもなきにしもあらずだった。
特に、鳴り物入りでできた大型商業施設であっても、テナントが1年もすれば、撤退して、別の店に変わっているなどということも多かった。
チェーン店のような店であれば、数か月、様子を見て、芳しくないと思えば、さっさと撤退を考えるというところも多いだろう。