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平和な復讐

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「やりっぱなし」
 ということであった。
 どうせ、放送局側も、
「記事になりさえすればそれでいいんだ」
 と、どっちでもいいとでも思っていることだろう。
 だから、結局は、
「やりっぱなし」
 で、もし、対策を真剣に考えていて、マスコミと一緒になって、歩道の安全を守ろうとしている団体がいたとすれば、完全にマスコミに踊らされただけになってしまう。
 要するに、
「しょせん、マスコミなんてそんなもの。だから、マスゴミと四湯されるんだよな」
 ということである。
 自分たちが売れさえすれば後はどうでもいいんだ」
 とでも思っているのだろう。
 それこそ、
「どんな汚い手を使ってでも、依頼人の利益を守る」
 という弁護士という仕事と似ているのであろう。
 どんなに、世の中が同情的に見ていたとしても、やつらの正義は、
「依頼人の利益を守る」
 ということが絶対なのだ。
 たとえ、人殺しであっても、法律の、
「抜け目」
 を探して、
「いかに無罪に持ち込むか?」
 というのが、弁護士の仕事である。
 刑事もののドラマなどで、弁護士というと、えてして、
「悪者」
 というイメージで描かれている。
 皆が皆、そうだとは限らないが、弁護士に弁護を依頼する時点で、刑事告訴の対象になっている容疑者以上だというのがほとんどなのだ。
 どんな理不尽な犯罪であれ、本当は犯罪を犯しているということが、明白であったとっしても、
「大丈夫、私に任せてください」
 と胸を張り、依頼人を安心させなければいけない立場なのだろう。
 それを考えると、
「人間の皮をかぶった悪魔」
 とまで言われることを覚悟して、仕事をしなければいけない。
 もちろん、弁護士になろうと、司法試験の勉強をしてきたのだから、そんなことは最初から分かってのことに違いはないだろうが、実際に弁護士として職務につくと、それ以外でも、検察や刑事を敵に回すということで、ある意味、孤立無援だといってもいい。
 検察側には、警察組織という、国家権力がついていて、捜査権も、警察にかなうものはない。
 弁護士は、まわりに戦ってくれる警察のような配下があるわけではないので、ある意味、検察の方が圧倒的に有利だろう。
 そういう意味では、
「憎まれ役」
 を甘んじて受けなければならず、しかも、孤立無援という弁護士も、そうやって考えれば、実の虚しい職業だといえるのではないだろうか?
 弁護士も気の毒でありながらの、甘んじて憎まれる商売ではあったが、マスゴミの場合はそんなことはない。
 完全にあいつらは、利益主導主義であり、
「売れさえすれば、報道の自由を盾に、最近ではプライバシー保護というものがあるが、そこに抵触さえしなければ、報道が許される」
 と思っているであろうから、
「世間を敵に回しても、結局、記事に興味があれば、新聞や雑誌を買ったりするのだ」
 ということで、営利企業として、
「売れることが至上主義なのだ」
 といえるだろう。
 そんな時代において、マナーを守らないやつが、相当に増えてきた。昭和の頃であれば、
「まわりの目があるから」
 といって、自重していたことも、今では、
「どうせ、何かをいう人もいないだろう」
 ということで、何も言われないという意識が強かったりした。
 そうなると、やりたい放題ということになり、下手をすれば、
「無法地帯」
 ということになる。
 昭和の頃は、何かあったら、
「長老」
 のような人がいて、他人の子供であっても、悪戯をしていれば、普通に叱られたりした。
 長老でなくとも、人によっては、迷惑を掛けられたりすれば、
「ボク、やめなさい」
 といって、注意をしたものだった。
 言われた子供も、言われたことを真摯に受け止め、反省をする。
「人から注意を受けることは、恥ずかしいことだ」
 ということを理解しているのだ。
 だから、人から注意を受けないようにしようとして、どこまでが大丈夫なのかということを、子供心に見分けられるようになる。それが大人になってからの判断力の育成に役に立っているのだから、
「子供の頃の悪戯は、しょうがない」
 といえるのだ。
 ちゃんと、見極めができるようになるから許されたことであって、今は、別に許しているわけではなく、
「子供を叱りつけて、逆恨みでもされたりすれば、相手が子供でも、殺されかねない」
 という時代である。
 だから、大人も迂闊に注意もできないし、まだ、その子の親が、
「うちの教育方針にケチをつけないで」
 というのであれば、まだマシなのに、実際には、子供のことをまったく考えておらず、あくまでも、
「大人の都合」
 あるいは、
「自分が、ひどい目に遭いたくない」
 というだけで、人の子供に説教をする大人がいなくなったのだろう。
 今の親は、きっと、自分の子供が他の大人に注意されているのを見ても何もしないだろう。
 その人が偏屈だと思うので、
「そんなややこしい人とトラブルになるのが嫌だ」
 ということで、厄介な話をすることもないに違いない。
 子供というのは、そんな大人の都合など、知る由もない。だから、
「親や、他の大人から叱られることはない」
 と思って成長する。
 中学生以上になると、学校でも、まず注意を受けることはない。
 ちょっと注意したり、昭和時代のように、宿題を忘れたからといって、廊下に立たせたりすれば、
「体罰」
 として、一絡げにされて、
「体罰教師」
 のレッテルを貼られ、下手をすれば、保護者の前で、校長、教頭、下手をすれば、理事長列席の上で、平謝りをさせられるのがオチである。
 これが、平成の頃であれば、また事情が違っている。
 昭和の終わり頃から徐々に増えてきたのが、いわゆる、
「校内暴力」
「登校拒否」
 というものであった。前からあったのだろうが、学校の勉強が、昭和40年代くらいから、戦後が終わり、日本が急成長する中で、それを担う次世代たちの、
「学力の底上げ」
 という問題がクローズアップされた。
 その頃になると、いわゆる、
「受験戦争」
 というものが、主流になってきて、そこで出てきたのが、
「詰込み教育」
 だったのだ。
 詰込み教育というものは、何を生むかというと、
「学力の差」
 であった。
 これは、民主主義、資本主義における弊害ともいわれる、
「貧富の差」
 と似たところがある。
「学力の低い人たちを何とか底上げしようとすると、せっかく学力の高い人の意欲と、やる気を止めてしまうことになる」
 となると、今度は、
「学力の差で、クラス分け」
 という考え方になるのだろうが、そんなことをしてしまうと、さらに、できる人と、できない人の差は、決定的なものになるだろう。
 民主主義の最大の課題と言われ、それを克服するためということで考え出された、共産主義や社会主義というもの。学力の差を縮めようとして、何かを考えると、
「教育における社会主義」
 なるものが生まれてきて、
「そもそも、資本主義、民主主義の考え方を植え付けるのが、教育だ」
 ということから考えると、
「学力の差を埋めようとする考え方は、本末転倒ではないか?」
 ということになる。
作品名:平和な復讐 作家名:森本晃次