辻褄合わせ
また逆に、アツシの意見に反対意見を言っていたのに、まわりから、
「結局二人の言っていることは、根底で同じなのに、よくあれだけ、議論を白熱させて、無理にでも反対意見を押し出そうとしているのを見ると、これほどぎこちなく見えるものはない」
という感じに見えたようだ。
それを考えると、マサツネもアツシも、示し合わせたわけでもないのに、お互いに、どちらかが話している時は、出張ってくることのないようになったのだった。
「本当に二人の間に、おかしな距離が存在しているのではないか?」
と感じたのだ。
会話の中心になっていたこととしては、
「一人の人が、場所が変われば、時間の進み方が違うという場合と、人によって、時間の進み方が違うので、場所は関係ない」
という考え方であった。
どちらの発想も、
「時間の進み方が違うというところから発想が出てきているんだけど、その根底で同じなのか、違っているのかということを、話しているように、たぶん、他人としては思っていたに違いない
と思えたのだ。
一度、変わった小説を読んだことがあった、
「この店では、時間の進み方が他とは違う」
という発想の話だった。
そして、その話は、ドッペルゲンガーと繋がってくる話であった。
他の小説の中にも出てきた、
「定番のようなお話」
であるが、その話としては、
「五分前の自分」
という発想がある、
これは、ネタバレというか、犯人を最初に示しておいて、
「どうして、この人を犯人だと思ったのか?」
あるいは、
「探偵や刑事が、いかにして、犯人のボロを出させるか?」
というような、やり方をするかということであった。
殺人事件のトリックには、
「最初にバレてしまうと、話が続かないものや、逆にバレてもそこから話を膨らませるトリックの2種類がある」
と言われている。
前者の、
「バレてしまうと話が続かないもの」
としては、
「一人二役トリック」
などのように、犯人が一人二役をしていたなどということが、最初に分かってしまうと、その時点で、犯人が分かったも同然になるだろう。
ただ、必ずしも最後である必要はない、
犯人が途中で分かっても、そこから先の逮捕劇までを、バイオレンスであるかのような作品と捉えれば、ある意味、ミステリーとしては、そこで終わったとしても、そこから先は、別の見方ができるという意味で、
「一粒で二度おいしい」
と思う読者もいるだろう。
しかし、あくまでも、
「謎解きを、探偵小説」
として捉える人にとっては、そこから先のバイオレンスは不要だと思うだろう。
要するに、
「この作家は、あくまでも探偵小説かだ」
ということなのか、
「謎解きの後に、バイオレンスが含まれている」
ということを分かって見ているのかによって、変わってくるのである。
また、最初から分かっていても仕方のないものとしては、
「死体に細工がしてあるもの」
というのがある。
例えば、
「顔のない死体のトリック」
と呼ばれる、いわゆる、
「死体損壊トリック」
である。
つまり、
「死体の身元が誰なのか分からないようにする」
というもので、ただ、この場合、昔から公式のようなものがあり、
「被害者と加害者が入れ替わる」
というのが、探偵小説の定義のようなものだった。
たぶんであるが、
「被害者と加害者が入れ替わる」
という発想が先にあって、
「じゃあ、そういう内容にするにはどうすればいいか?」
ということになると、
「死体を損壊させて、身元が分からなくすればいい」
と逆の発想があったのかも知れない。
だが、どちらにしても、
「絶対にこうではないといけない」
というものではない。
死体損壊トリックでも、いかに、この法則に読者を考えさせないように導くかということが作者の手腕であり、いろいろな着想があった。
ある探偵小説で、
「死体損壊と、一人二役をくっつけた
というようなそんな話があった。
被害者の顔が分からないことで、
「被害者は誰なんだ?」
ということになった。
しかし、実際に蓋を開けてみると、
「犯人が一人二役を演じていて、犯人が殺されたかのように偽装をしながら、本当は別の人を殺したいというのが、本当の動機だ」
というものであった。
ただ、一人二役という発想が挟まったことで奇抜な感じがするが、逆に、一人二役というトリックがなくとも、この発想は、
「いずれ、辿り着く通過点だ」
といえるのではないだろうか?
そういう意味では、一人二役は確かに、途中でバレてしまってはいけないものだが、そこに気づかせないようにするための
「誘導」
として、
「死体損壊トリックを使う」
という、画期的なものだった。
作者がそこまで考えてもことなのか、結果的に、
「トリックの伏線に、別のトリックを使う」
という、まるでマトリョーシカのような犯罪も、
「結構ありなのではないか?」
と思えてきたのだった。
そのことが、
「時間の違う空間」
あるいは、
「五分前の自分」
という発想に絡んでくるのではないだろうか?
大団円
時間の違う空間というのは、
「初めて立ち寄った喫茶店で、一人の老人に声を掛けられ、ここは、時間の進みが極端に早いところだ」
と言われた。
その喫茶店で知り合った老人というのは、実は、本当はまだ30歳だという。この店に来る間に、いつの間にか老けていき、こんな風になったというが、店を出てから、次の日、会社に行くと、皆、少し老けた自分に一切、何も感じないのだという。
だから、昨日まで先輩だった人が、今では先輩と呼ばれる年になり、実際に先輩が今度は自分に、
「先輩」
といって、年を取ったという違和感を感じていないのだった。
「どういうことなんだ? 誰かと勘違いしているんだろうか?」
と思ったがそういうわけではない。
いろいろ考えてみると、
「ここは、パラレルワールドで、自分が存在しない、自分を中心とした世界なんだ」
と理解することで、納得がいくような気がした。
ということを考えていくと、
「パラレルワールドというのは、自分を中心として広がっている世界でしかない」
といえるのではないだろうか。
そうでなければ、その世界には、
「もう一人の自分」
というものが存在しているわけだが、その存在を見ることはできない。
だからこそ、もう一人の自分、つまり、ドッペルゲンガーを見ると、死んでしまうと言われているのかも知れない。
ただ、その、
「死ぬ」
というのも、本当お意味での、
「死」
ではなく、
「別の次元に飛び出すための世界」
だと考えると、考えられないことでもない、
ドッペルゲンガーを見ると、死ぬということは、別にネガティブなことではなく、他の世界に行くことだと考えると、死ぬということを改めて考えさせられるのだ。
「死というものの、何が怖いのか?」
ということである。
「苦しむ」
というのが怖いのか、
「今まで生きてきた世界を飛び越えて、どこの世界か分からない世界に飛び出す」
ということが怖いのか、それとも、