悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)
■3月2日(9日目):石巻 ⇒ 登米(宮城県)
【この日の概要】 10年前に見て回った「石巻市内」の被災地の復興状況を見て回った。その後、登米の「はっとFM」を訪問し、取材でお世話になった高橋アナにお会いできた。その後は、登米市内の道の駅で車中泊。
【この日のポイント】石巻港近くの復興ぶりは素晴らしく驚いた。一方で、津波の被害が大きかった旧北上川の河口の西側(日和山の南側)では、「石巻南浜津波復興祈念公園」は工事中で、そこに、あの「がんばろう!石巻」の看板があった。三代目だ。これからも、代が変わりながらも、永遠に残して欲しい。
【本文】 昨夜は11時に就寝して、7時半過ぎまで眠ってしまった。
目覚まし時計はセットせず、目が覚めたら、その日が始まる。そんな「キャンピングカーの旅」を続けている。日頃からそのような生活なのだが、午前8時過ぎまで眠ってしまうことはなく、仕事をしている時より早く目が覚める時もある。その分、楽しむ時間が長くなっているセカンドライフだ。ちなみに、眠くなったら寝る毎日だ。
今日の天気予報も雨。あまり長い距離は運転せず、のんびりしたいと思い、全てがゆっくりした朝になった。
先ずは、駅舎の前に設置された大型モニターに映し出される石巻の映像を、少し体を動かしながら、暫く見ていた。その時、高齢者の男性から声を掛けられ、「ここには良い所がたくさんありますよ」と地元の人らしい言葉を貰った。「ジル」に戻ってコーヒーを飲みながら、そして、今日の計画を考えた。
朝食の前に、サブバッテリーの充電残量が少ないため、「ジル」をトラックが停まっている場所に移動して、エンジンを始動し、アイドリングで回した。昨日買ったいちじくジャムを塗った食パン2枚に牛乳。トースターがないので、電子レンジで温めた食パンだが、食感がNG。次回はホットサンドメーカーを持参したい。
朝食のゴミを、「ジル」のキッチンのゴミ箱に入れたら溢れた。この道の駅のゴミ箱に捨てようと思ったが、ゴミ箱が見当たらず、ゴミを捨てることができなかった。どうしようかと思ったが、そのまま封をして、シンク下の空間に押し込んだが、次回の旅からは、自宅に持って帰れるように、地元の市指定の大きなゴミ袋を持参することに決めた。
お世話になった道の駅から再び、「ラジオ石巻」に向かった。その周囲には駐車場がなかったので、再びコンビニの駐車場に停めて、レンチンごはん(3パック入り)を買った(ので許してね)。
「ラジオ石巻」では、放送局長兼アナウンサーの女性が私を待っていてくれた。
彼女には、東日本大震災後にラジオ石巻を取材した経緯や取材時、その後の事、そして、この旅で印象に残っている帰還困難区域、復興状況、除染状況等の話をさせて頂き、持参したパソコンから会報誌の記事と追跡レポートのデータを提供した。
彼女からは、取材に応じた「ラジオ石巻」のメンバーの近況を教えて頂き、その一人の高橋アナは今、石巻から北の登米市のコミュニティFM放送局「H@!FM(はっとエフエム)」で仕事をしているとのこと。もし登米に行くのであれば、連絡を入れておきますよと言われ、お願いした。
そして、「ラジオ石巻」のスタジオの写真を取らせて頂き、スタジオを背景に、私の写真を撮ってもらった。
最後に、もし可能ならば、松原ミキの「真夜中のドア」のリクエストをお願いした。この楽曲は、学生時代にやっていたバンドのコンサートで演奏したことがあり、そして今、世界的に注目されているシティポップスの楽曲だ。そして、静岡でもサイマルラジオで、「ラジオ石巻」の放送を聞けますよと教えてくれた。
「ラジオ石巻」の後は、石巻市内の被災地の復興状況を見て回ることにした。
その場所は、10年前の取材後の限られた時間内で、タクシードライバーに任せて回った被災地で、いまだにその光景が忘れられない。
先ず、旧北上川の中州にある「石ノ森萬画館」に向かった。そこへのアクセスが以前と異なっているようで、新しい橋が架かってはいたが、その周辺が一部、まだ工事中だった。当時、萬画館には6mを超える津波が押し寄せ、1階が大きくダメージを受け、そこにあったものは全て流され、瓦礫で埋まっていた。その後、多くのボランティアの協力もあり1年8ヶ月後に再開できたとのことだった。
彼の代表作は「仮面ライダー」、「サイボーグ009」、「がんばれロボコン」などだが、私が小学生の頃は、ウルトラシリーズの「ウルトラQ」、「ウルトラマン」、「ウルトラセブン」までは毎週見ていたが、変身モノはあまり好きになれず、「仮面ライダー」にはあまり興味がなかったので、再開された萬画館には入館しなかった。
漫画館の南側の広いスペースに「ジル」を停めて、昼食のカップ麺と缶詰を食べた。
次は石巻漁港に向かった。10年前、漁港に面した水産物卸売市場やその奥の水産加工工場の多くが被災し、残っていても壁が殆どない姿だった。そして、岸壁が沈下したのか、岸壁の上まで波が押し寄せている状況だった。
それが今、漁港と平行に走る道路は嵩上げされ、岸壁とその道路の間には新しい工場が立ち並び、全てが新しくなっていて、完全に復興したように見えた。ただ、漁港には入れなかったため、海水に浸かっていたあの岸壁はどうなっているのかは分からなかった。
漁港側から旧北上川を渡って、日和山(ひよりやま)の南側に向かった。
10年前、住宅地だったこの地域は壊滅状況で犠牲者も多かった。その中に残っていたアパートの3階から4階部分に7mの津波に浸かった痕跡を見た時、声が出なかったことを思い出した。
そして日和山の麓には、津波が原因で起きた火災で焼けてしまった門脇小学校の校舎、それは戦争でもあったかのような焦げた姿だったが、今も、ほぼ同じ状況で残っていた。小学校の運動場には工事車両が入っていたことから、多分、震災遺構としての保存工事が行われているのだろう。
10年前、タクシードライバーの案内で、石巻の被災地を見てきた最後に、「がんばろう!石巻」の看板に案内された。それは単なる効率の良い見学コースのラストだったのか、それとも何か意図があったのかは分からなかったが、テレビでも見ていたこの看板が、石巻の多くの人を励ましたに違いないと思った。
震災10年後の今、建っていた看板は3代目とのこと。その横の献花台で鐘を鳴らして、震災で亡くなった人たちの冥福を祈った。この一帯で、「石巻南浜復興記念公園(3月末に開園)」が建設中だった。
この公園の北側には、4.5mの盛り土で堤防の役割を持つ道路ができており、その奥のアパートは「門脇西災害公営住宅」だ。被災された方々が住んでおられるのだろう。
僅か半日だったが、記憶に残る石巻の被災地の“10年後の今”を見て回った。市民生活視線の優先順位で、限られた復興原資(予算)を配分し、一部の復興工事は未完だったが、着々と復興が進んでいるように感じた。
その復興の速度は、地元の人の心の立ち直りに、ちょうど良い速度なのかもしれないと、ふと思った。
その時に気付いたのは、これまでに、被災された人と直接、話をしたことがないことだった。