悠々日和キャンピングカーの旅:⑨東北太平洋岸(茨城~岩手)
この一帯の潮の流れは激しく且つ暗礁も多く、海上交通の難所として古くから知られている。江戸時代に狼煙台が建てられ、明治時代には煉瓦石造の灯台に替わり、昭和に入り、地震で破損したことから鉄筋コンクリート造りに改築されるも戦争で破壊され、終戦後に復旧されたものが現行の灯台だ。幾度の変遷の歴史があり、さらには、ここを舞台に作られた灯台守の映画が大ヒットしたとのことだった。
展望台から下りてから資料館に入った。多くの情報が掲示され、「キャンピングカーの旅」の気持ちの余裕と、今朝からのゆったり感が続いているのか、その全てをじっくりと読んだ。
たとえば、かなりの重量の灯台のレンズは水銀の槽に浮かんでいるため回転し易くなっていること。
昔は、重りが下がる力でレンズを回していたため、それを揚げるための人力が必要で、一晩に何回もその作業が必要だったこと。
レンズは厚い1枚ではなく、分割された薄いレンズが並び、重量が軽くなっていて、1枚レンズと同じ性能を有していること。
以上は、どこかの灯台の資料館で知った内容だが、再学習になり、しっかりと記憶した。
資料館には、この灯台の上空を走る(飛ぶ?)鉄道999のイラストが飾られており、これは点灯120周年記念に、松本零士氏が描いたイラストで、彼の写真も掲げられていた。
駐車場に戻ってからは、海岸沿いの道を少し歩いた。そこにも、美空ひばりの遺影碑があった。
後日、この紀行文の執筆の際にマップを見て気付いたのだが、もう少し先に「いわき震災伝承みらい館」があったのだが、遺影碑の場所にいた時には気が付かなかった。残念。
塩屋崎灯台からは、海岸を北上するルートから少し外れるが、東北地方では仙台に次ぐ2番目に人口が多いいわき市の中心街に向かうことにした。特に目的はなかったが、いわきの街並みを見たかった。JRいわき駅の前まで走った後、スパリゾートハワイアンズ(旧称:常磐ハワイセンター)へ行ってみたくなった。
常磐炭田が閉山した後に、地元の生き残りを賭け、困難を乗り越え、やっとのことでオープンに漕ぎ着けたリゾートだ。この旅の最中に、そこに滞在してゆっくりする気はないが、せめてその外観や周辺の炭鉱の遺構を見ようと思ったが、かなり内陸に入ってしまうことから諦め、海沿いを北上するR6に戻った。別途、妻と滞在型スタイルで、リゾートを楽しむことに決めた。
間もなく昼食時間になるので、道の駅「よつくら港」に立ち寄った。
この駅舎内は充実しており、2階のフードコートでは、海鮮丼や海の幸の釜めし、それにラーメンなどの私の好物が並んでいたが、かなりの混雑状況のため、そこでの食事は諦めた。コロナ感染を危惧してテラス席に出たところ、防潮堤が見えた。
そこから海を眺めようと少し歩き、防潮堤に上がると広い砂浜で、南側に目を凝らすと、一面白波の海越しに、先ほどまでいた塩屋崎灯台が小さく見えた。
道の駅に戻り、昼食用に寿司とてんぷらを買い、夕食用に瓶入りのホタルイカの沖漬けとウニの瓶詰めも買った。「ジル」に戻り、テレビとマップを見ながら、昼食を済ませた。その後、四倉漁港の岸壁を走ってからR6に戻り、再び北上を続けた。
道路脇に突然、「注意 この先帰還困難区域」と書かれた看板が立ち始めた。「注意 軽車両・歩行者は通行できません」の看板も。どちらも、初めて見る看板だった。
「帰還困難区域」という言葉は、テレビや新聞で知ってはいたが、いざ、その場所に入ってしまうと、大袈裟ではないが、緊張感や不安感が込み上がってきた。そうなった自分自身に驚きながら、速度を多少上げながらも、R6の両側の景色をつぶさに見ながら走った。
そして看板の内容は、「注意 ここから帰還困難区域」に置き換わった。その地点から先のR6の脇道には全てバリケードが設置され、「通行規制中 この先 帰還困難区域につき通行止め」の看板があり、その横には防護服を着たガードマンが立っていた。
この状況は、まだ放射能の除染が終了しておらず、高い汚染レベルにあることを意味しているのだろう。そして、私がとっさに取った行動は、「ジル」の窓を閉め、エアコンの空気の吸い込み口を、車外から車内の循環に切り替えたことだった。
この旅では殆ど、運転席の窓を開けて走っている。風の向きや強さによっては助手席の窓も開けている。寒い時でも、運転席の足下を暖房しながら、窓を開けている。
それは、バイクで風を切って走るツーリングを長年楽しんできたためで、「ジル」の運転中でも、流れ込んでくる風を受けて走りたい気持ちになってしまう。それは嗜好のレベルを超えて、体質に昇華したのかもしれない。
さらに、小雨の中でも窓を開けて走っている。それは、運転席の上のバンクベッドの幅が「ジル」のベース車のカムロードの車幅より広く、加えて、バンクベッドがフロントガラスの前方に飛び出ているので、それらが庇(ひさし)のようになっているためで、窓から雨が振り込まない。
車窓風景の中で動くものは、R6を走るクルマと脇道の入口で立っているガードマンのみで、それ以外は動いていない景色になった。
田畑は季節的にまだ緑色ではないが、耕作準備が行われている様子はなく、その近くには除染作業で取り除かれた表土が入った黒い袋がかなりの数並んでいた。10年も春が来ず、あと何年待てば春が来るのだろうか。
脇道から見える民家は締め切られているが、多かれ少なかれ外観が荒れていた。R6沿いのガソリンスタンドもカーショップもレストランも、全てが閉まっていて、一部の店舗では窓やドアの建付けが外れており、その駐車場には高い丈の草が生えていた。中には、ドアや窓のガラスが割れて、荒れ果てた外観のものもあった。
更に進むと、「福島第一原子力発電所」の案内板が立っていた。車窓からは原発の排気塔と高圧電線の鉄塔が見えた。じっくり見るならば、廃炉作業中のクレーン等も見えたかもしれないが、停車することは憚れるし怖いので、運転を続けた。
原発に続く道路には、通行証の有無の確認をしているのか、放射能の防護服を着たガードマンが数人立っていた。この状況は既に10年近く続いており、日常風景になってしまったのだが、決して慣れたくはない光景だ。
新聞等によると事故を起こした原発は汚染水を保管するタンクは増え続けているようで、夥しい数のタンクが並んでいる空撮映像があったことを思い出した。原発の廃炉作業は10年経っても、なかなか難しいようようだ。
本紀行文を執筆している今、2023年8月24日から始まった処理水の放出はトリチウムが規定値以下の問題のない状況で、第3回目の放出も完了した。
原発から遠ざかったあたりで、浪江町の標識の下に立っていたのは「ここまで 帰還困難区域」の看板だった。それからは緊張感が薄らぎ、解放された感じがしたが、といって、すぐには窓を開けたりはしなかった。その先に道の駅「なみえ」が見えたので、小休止することにした。