Duds
それからもしばらく話し込んだが、終電が近づいていることに気づいて、おれは咳ばらいをしながら財布を取り出した。その作法はとりあえず合っていたらしく、二杯を飲んだだけで四千円の会計はびっくりしたが、とりあえず寒川にもお礼を言って、店から出た。社交スキルが少し上がっただけで、実質成果はゼロ。当たり前だ。ここは、安田が二十年前に通っていたバーだ。今顔を出して、見つけられるわけがない。杉野の情報が甘すぎる。
駅までの道を歩いているとナナミから電話がかかってきて、メッセージを途中で無視した形になっていることに気づいたおれは、通話ボタンを押した。
「急に無視とか、ない」
「ちょっと立て込んでた。コマツおらんかったら、そんな暇か?」
「暇ちゃうよ。カミやんどうしてんのかなーって」
ナナミが言ったとき、路地に原付が入ってきて、おれはすれ違うために脇へ退いた。
「外?」
「せやな。わけあって、大人向けのバーにデビューしたわ」
「えー、行きたい」
相槌を打とうとしたとき、原付を運転する男の左手に何かが握られていることに気づいたおれは、ケータイから手を離して目の前のゴミ箱を掴んだ。運転手に向かって振り上げたが、間に合わなかった。男が振りかぶった棒のようなものがおれの頭に直撃するのと同時に金属音が鳴ってゴミが散らばり、ゴミ箱にぶつかったことでバランスを崩した原付は側溝にハマって運転手を地面に投げ出した。目が回る。酔いじゃなくて、運転手の持っていた『棒』が側頭部を思い切り殴っていったのだから、当然だ。おれはふらつきながら体を起こそうとする運転手に追いつき、その膝裏を蹴飛ばした。男が左手に持っていたのは特殊警棒で、おれはそれを引きはがすと、背中に振り下ろした。
「道、譲ったやろ。何が問題やねんお前」
男は立ち上がろうとしているが、原付に片足を挟まれていて体がうまく動かないようだった。おれは警棒を何発か追加で振り下ろして、ヘルメットを引き剥がした。知らない顔で、おれと同じぐらいの年齢に見える。ずっと頭の中に残る、嫌な感触。
「誰かに頼まれた? もう殴らんから、正直に言えや」
男はうなずいて、顔を振り向けた。
「見かけたらシバけって言われてます」
「なんで過去形ちゃうねん。やる気かお前」
「いや、違います。そう言われてました」
男はそう言って、片足を原付から抜こうとした。おれは原付に体重をかけて、言った。
「待てや。誰に言われてん?」
「言えないです」
おれは原付の上に飛び乗って体重を乗せた。ギリギリとプラスチックが軋む音が鳴って、自分の足から逃れるように男は悲鳴を上げた。
「絶対こうなるん、分かってたやろ。そんな怖い相手なんかい」
「いえ、分かりました。言います。杉野って人です」
おれは原付の上でバランスを取ったまま、顔をしかめた。同時に、約束が違うと言いたそうな顔で、男がおれを見上げた。原付の上から飛び降りると、おれは言った。
「杉野って奴に言われたんか? おれを見かけたらシバけって?」
もしかして、杉野と安田はグルなんだろうか? おれは原付を持ち上げて反対側に倒すと、自由になった男に手を差し出した。男は戸惑っていたが、おれがずっと出したままにしている手をようやく掴んで、体を引き起こした。横倒しに転がったゴミ箱を壁に引きずって椅子代わりにすると、おれはそこへ男を座らせた。
「足、折れてんの? 名前は?」
「痛いですけど、分からないです。自分は谷川っていいます」
谷川は呟くように言うと、自分の選択を心の底から悔やむみたいに、泣き顔みたいなしかめ面を作った。おれはハンドルバーが曲がった原付に目を向けた。
「他に同じことを頼まれてる奴はおるん?」
「自分の知る限りでは、他にはいません」
谷川が首を横に振りながら言い、おれは路地のはるか先を目で見ながら言った。
「あのバーと、なんか関係あんのか?」
「バーって、なんすか?」
確かに、谷川に分かるわけがない。いつの間にか、おれの話し方はナナミみたいになっている。
「寒川って名前に聞き覚えは?」
「すみません、分かりません」
寒川の顔が記憶にずっと残っている。賢そうな銀縁眼鏡と肩にかかった黒髪とか、少し掠れた声と物腰の柔らかい話し方。あの会話が谷川を呼び寄せるためのサインだったとは、思いたくない。
「バーも寒川も、全く知らんのやな?」
「はい。寒川ってのが分かりません。バーって、パブストのでっかい看板あるとこですか?」
「パ……、何? 青いリボンのことか?」
「そうです。パブストビールの看板っす。自分、あの辺をうろついてるって、聞かされてました」
どいつもこいつも、おれより世間慣れしていて苛つかせてくれる。杉野は、おれを諦めさせようとしたのだろう。人に頼むとは手が込んでいるが、それはおれを使っているタカも同じだ。
「お前は、杉野とどういう関係やねん」
「自分は、色々と世話になってます。金欠のときに、単発の仕事くれはるんで」
タカとおれの関係に似ている。頭がくらくらする。おれはケータイを拾い上げた。ナナミとの通話は終わっていたが、メッセージが数件連続で届いていた。おれは『無事や、落としたから探してた』と送り、液晶に大きなヒビが入ったケータイをポケットにしまった。
「谷川、おれをシバき損ねたから報酬はなしか?」
「逃げられたって言います」
谷川はへし折られたプライドを庇うみたいに、猫背になった。おれは言った。
「杉野は、この件でどれぐらいくれるん?」
「一万です」
おれは悟られないように笑った。谷川の表情からすると、それでも大盤振る舞いなのだろう。
「おれは、安田って奴を探してる。この辺によく来るって話やったけど、見込みが外れた。その情報を渡してきたんが、杉野や」
「そうなんすか。あー……」
谷川は頭をぐしゃぐしゃと掻き回した。警棒で人をシバく報酬が一万円の『上司』に対して、それなりに言いたいことはあるらしい。
「なんつうか、あー」
谷川は頭を抱えたまま貧乏ゆすりを始めた。おれは言った。
「何歳?」
「二十二です」
「タメやん、別に敬語いらんで」
おれが言うと、谷川は顔を上げた。その表情から察するに、杉野は二枚舌なのだろう。そういう奴に頭を下げないとやっていけない理不尽さは、理解できる。二枚はないかもしれないが、タカにだってそういう部分はある。フジですら、どうでもいいレベルのことはよくごまかしている。
「いや……。二つ返事した俺が悪かったんです……、いや、悪かったんやけどさ」
「金欠なん?」
おれが言うと、谷川はうなずいた。捕らぬタヌキのなんちゃらだが、安田に辿り着けば、懐には十万が入る。おれは言った。
「安田を見つけるために、おれは杉野にサシで会いたい。セッティングしてくれたら、二万やるわ」
谷川は不器用に片方の口角を上げると、顔を引いた。そんなうまい話があるわけないという顔だ。おれも、十万をもらえる保証はない。しかし、谷川の表情は少しだけ乗り気で、このまま手ぶらでは帰れないような切羽詰まった感じもある。おれは、原付を見ながら言った。
「原付以外にアシないん?」