Duds
そこまで考えたとき、賢そうな表情で夜景を見下ろす島田の顔がちらりと浮かんだ。これをやっている限り、おれはいつまでもここから抜けられない。断るつもりはなかったが、返事はなかなか打てなかった。代わりにコマツへ『おれ単独かいな』と愚痴めいたメッセージを送り、それが既読に変わったとき、ナナミから電話がかかってきて、おれは声が通らないように空き部屋に面している壁に移動した。
「なんや」
「コマツな、寝てんねん」
今、『寝ている』コマツとやり取りをしているところだが。あいつは寝ながらメッセージを読んでいるのだろうか。
「それだけか?」
「もー、バカにして」
ナナミが少し抑えた声で言ったとき、クラクションの音が遠くで聞こえた。
「外?」
「うん、コンビニに買い物出てる。コマツとなんかあったん?」
それは、おれが聞きたい。黙っていると、ナナミは続けた。
「コマツなんか、最近おかしいねん」
「いつぐらいから?」
「えー、いつかな。映画の帰りにモツ鍋屋さん行ってからかな?」
それがいつなのか、おれに分かるわけがない。おれは歯ぎしりを終えると、言った。
「いつ映画観て、その後モツ鍋屋に行ってん?」
「めっちゃ最近やで。カミやん、絶対あの味好き」
最近なのは、とりあえず分かった。おれはカレンダーをめくって、裏に『コマツはさいきんまできげんよし』と書いた。
「なんか書いてる?」
ナナミは地獄耳だ。特にごまかす必要もないから、おれはうなずきながら言った。
「メモってた。コマツがいつからご機嫌斜めなんか、気になるやん」
「カミやんとなんかあったんちゃうんや。えー、じゃあタカさん? こっわ」
「お前の取り合いになってんちゃうか?」
おれが言うとナナミは笑い出し、スピーカー越しに『は』の高速連打が返ってきた。
「やめてー。あーでも、カミやんと揉めてないなら安心したかも」
ナナミとの通話が終わり、おれはタカの要件に戻った。
この安田という奴を、探さなければならない。
週末まで三日待ち、ホームセンターのシフトが終わってから『安田』がよく現れるらしい駅の繁華街を歩いた。おれのアパートからは一時間ぐらいの距離で、終電を計算に入れると夜十一時がリミット。タカを経由した杉野の情報によると、よく立ち寄る居酒屋とバーが数軒ずつあって、その行動様式は単純らしい。バーでウィスキーを飲んだら足元がおぼつかなくなるから、路地を縫って市街地を抜ける間に襲うチャンスは何度でもある。青色のリボンみたいな看板が光るバーの入口が見えるコンビニでしばらく時間を潰していると、若い客が何人か入っていくのが見えて、おれはガラス窓に映った自分の姿格好と見比べた。ギリ浮かない程度の身だしなみ。コンビニから出て店まで歩き、ケータイで時間をもう一度確認した。午後十時。
フジはやはりあの後、タカから指輪の話を聞いていたらしい。夜中に『人づてはロクなことないね』と、今までなら絶対に言わなかったようなことをメッセージで送ってきた。おれは、フジに人間不信になってほしくない。どちらかというと、あの対人スキルを見習いたい。何もないままベビーカステラ屋を構えられればいいが、フジは同じ調子で仕事を続けられるだろうか。次の現場は地元から二百キロ離れていて、泊まり込みになる。ケータイの画面を見ていると、不安を逆撫でするみたいにナナミからメッセージが入った。
『コマツな、泊まり込みのバイトでしばらくおらんの。さびしー』
ナナミの頭の中は宇宙だ。ブラックホールかもしれない。そして、コマツはどこにいても存在感がある。特に何か役に立つことをするわけじゃないが、いなければ寂しいのかもしれない。
『いつまで?』
『教えてくれんかった。また分かったら教えるって。タカさんとかな?』
消去法でいくと、それしかない。ナナミが不安になって色々とおれに喋っているということを、タカやコマツは知っているのだろうか。しばらく入口で棒立ちになっていたことに気づいて、おれはバーの扉を開けた。カウンターにはさっき入っていった若い客のグループと、女がひとり端に座っていた。とりあえず真ん中に座ると温かいおしぼりが出てきて、カウンターの真向かいで動かないバーテンダーと目が合った。漫画みたいな蝶ネクタイに、演技中みたいな口元。おれがその目をじっと見返すと、バーテンは言った。
「ご注文はお決まりでしょうか」
一席空けて座る若い女がくすりと笑った。嫌な感じではなかったが、おれは相当場違いなのかもしれない。肩の辺りで揃えられた黒髪を揺らせながら、女が言った。
「割り込んでごめんなさい、ちょっと休憩。シャーリーテンプルをください」
おれがその様子を眺めていると、女は目を合わせて片方の眉をひょいと上げた。
「えっと、同じのを」
おれが追随すると、バーテンダーが『かしこまりました』と言いながら目の前から消えて、おれは助け舟を出してくれた女に小さく頭を下げた。女は銀縁眼鏡を持ち上げながら言った。
「安心して、アルコールは入っとらんよ。待ち合わせ?」
「いえ、人を探してます。あ、すみません。神山です」
「あはは、神山さんねよろしく。自己紹介されたら名乗らんわけにもいかんなあ。私は寒川」
寒川は真ん中に寄った前髪を払いのけながら言った。おれが一礼したとき、お互いの挨拶が済んだことを見計らったように、バーテンダーが目の前に背の高いグラスを置いた。おれがコースターからグラスを持ち上げてひと口飲んだとき、寒川が自分の前に置かれたグラスを持ち上げながら言った。
「この店によく来る人?」
「はい、聞いてる限りでは」
バーテンダーはグラスを洗っているが、聞き耳を立てているようにも見える。周りを真似てカウンターに置いたケータイが光って、ナナミからメッセージが届いた。ここは、完全に新しい世界だ。寒川とは会話の途中だし、読んでいいのかもよく分からない。空気が揺れて、隣の席にグラスごと移ってきた寒川が言った。近くで見ると、おれとそんなに年は変わらないように見える。
「自由にしていいんよ。そんな、ルールとかないから。写真とかないん? 私の飲み友達かも」
寒川が言い、おれはうなずきながらシャーリーテンプルをひと口飲んで、ケータイの写真を見せた。寒川は眉間にしわを寄せて、首を傾げた。
「んー、分からん。私、結構ここに来るけどなあ。マスター、こっち向いてー」
バーテンダーが体ごと振り返り、顔を傾けておれのケータイを覗き込んだ。しばらく首を傾げていたが、眉をひょいと上げた。
「昔のお客さんかな? 自分がここを継いだすぐ後だったから、それこそ二十年前」
言われてみれば、タカから送られてきたこの写真自体が、どこか古くさい。今は全く違う見た目かもしれない。二十年前に通っていただけなら、ここで聞きこんでも意味はなさそうだ。出ようと思ったが、今度はタイミングが分からなくなった。シャーリーテンプルを挟みながらしばらく会話をしている中で、寒川は社会人二年目で二十五歳だということが分かった。酒が強いわけではなく、静かに飲める場所が好きらしい。常に大声が飛び交う居酒屋がホームのおれからすると、完全に別世界だ。