パンデミック禍での犯罪
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年9月時点のものです。
世界的なパンデミック
令和二年の頃だった。
K私立の中学校が、市の中心部から、少し離れたところにあった。そのあたりは、駅からも少し離れていて、一種の住宅街であったのだが、開発を始めたタイミングがまずかったのか、少し他の地域に遅れたために、大型商業施設の誘致に失敗したのだった。
そのため、住宅街を作っても、そこまで人が入らなかった。
半分くらいは、分譲地もマンションも、残っている状態だったのだ。
夜になると、駅前から数分歩いたあたりから、街灯もまばらで、
「本当に都会なんだろうか?」
と思わせるところであった。
昭和の頃の商店街がアーケードを元に作られていたという話を聞いたことがあったが、確かに、アーケードの名残のようなものは残っていた。
商店街は、現存しているのだが、昼間でも半分近くはシャッターを下ろしているようなところだった。
「K市の、駅前商店街を通れば、たいていのものは手に入る」
と言われた時代は、20世紀までだったであろう。
一度すたれてしまった街を、再度活気のある場所にしようとするならば、集客できるだけの、何かがなければ成り立たない。
それが商品なのか、目新しい何かなのか、正直分かっていなかったのだ。
それが分かるくらいなら、すたれることもない。
そもそもすたれた理由は、
「郊外に、大きなショッピングセンターができたからだ」
というのが、一番の理由だった。
他にも、いろいろな理由があるだろう。小さな理由が無数に重なり合って、すたれてしまった街を照らし出しているのかも知れない。
そんなことを考えていると、あっという間にすたれていった商店街。やはり、
「時代の波に逆らえない」
と言ったところであろうか。
中には、郊外のショッピングセンターのテナントとして入っている店もあった。
その店は、アパレル系だったり、ブティック、さらには、宝飾店など、元々、商店街では浮いていたようなところであったが、だからと言って、郊外型のショッピングセンターに行ったからといって売れるとは限らない。
他に、もっと流行の先端を行っている、大型店舗の支店のようなところなので、そもそも、ネームバリューからして、太刀打ちできるものではないだろう。
そんな時代において、この街には、
「都会的なものや、流行の最先端を取り入れる」
というような器用なことができるわけではなかった。
「古き良き時代を振り返って」
というようなコンセプトから生まれて商店街は、昭和の頃であれば、かなりの賑わいがあったようだ。
何しろ、
「商店街を奥までいけば、ほしいものがすべて手に入る」
という触れ込みだったので、他の街に住んでいる人から、
「K市に住んでいるなんて羨ましい」
と、親の世代では言われていたということだった。
何しろ、昭和からいえば、
「バブルの崩壊」
「リーマンショック」
などというものがあり、
「失われた30年」
などと言われてきたではないか?
そんなK市だったが、次第に街を離れていくと、分譲住宅のまるで、
「棚田」
のようになったところがあるが、最近までは、更地が多かったが、今は住宅が建っている。
どうやら、近くの会社の社宅として、安価で貸し出しているようだ。
元々は分譲だったのだが、それではほとんどの土地が余ってしまうということで、行政が金を出すことで、そこに家を建て、貸し出すことになった。借り手の会社は結構すぐに見つかった。
その理由は、最近の社会事情にあった。
令和2年というと、例の、
「世界的パンデミック」
が、社会問題となった頃であった。
「学校閉鎖」
から始まって、
「緊急事態宣言」
と、まるで街が、昭和の時代の正月三が日のように、ゴーストタウンのようになってしまっていた。
そんな時期においては、
「店には休業要請、会社には、リモートの推進であったり、時差出勤の要請」
などを行っていたのだ。
県庁所在地の地下街などは、まるで、夜の十時以降から、朝の七時前のごとくであった。
もっとも、今の都会では、終電が出た後、電車や地下鉄が動き始めるまでは、地下街を封鎖するので、地下街の様子は分かりかねるが、夜と、始発が走り始める前後の1時間くらいは、そんなひどい光景がみられるのであった。
それでも普段であれば、朝の7時を過ぎた頃から通勤の人が増えてきて、店は開いてなくても、賑やかになっていることだろう。
しかし、緊急事態宣言ともなると、真昼間でも、電気が消えていて、開いている店がちらほらあるだけで、実に閑散としたものだ。
ネオンも、暗くならない程度につけられていて、点々とした店の明かりを見るしかない状態だった。
こんな時に開いている店としては、基本的に、
「一部スーパー」
「薬局」
「コンビニ」
くらいで、それ以外はほとんど閉まっている。
だから、ほとんど皆、家から出ないのだ。
電車に乗っても、朝の通勤ラッシュの時間に、1車両には、10人も乗っていないというありさまだ。
「これだったら、始発電車と変わらないじゃないか?」
というほどであったり、
その頃になると、もう違和感がなくなったが、皆がマスクをしているというのが、以前は、
「あの人、怪しい」
と言われていたのに、今では、
「あの人、マスクをしていない」
といって通報されたり、タクシーやバス、電車などでも、マスクを着用していないと、降ろしても構わないという政府の通達だったのだ。
逆に、次第にマスクが当たり前になると、
「マスクをしない方が、違和感があって嫌だ」
という人も出てきた。
マスクをすることで、人にこっちの考えを見抜かれずに済むということである。
やはり、時代が、
「個人情報保護」
という傾向にあることで、人に秘密を握られるということは実に困るということになるのだろう。
しかも、平成の頃から慢性化してきた、苛めなどによる、
「引きこもり」
と呼ばれる人たちにとっては、
「マスクをすることが、正義というのは、何とありがたい時代になったことか」
と思っているだろう。
しかも、緊急事態宣言の時代では、皆が引きこもりなのだ。逆に皆がそうだから、却って嫌だと思う人も多いに違いない。
そんな引きこもりの時に、皆が家にいるようになると、ある大きな社会問題が起こった。
世界的なパンデミック
令和二年の頃だった。
K私立の中学校が、市の中心部から、少し離れたところにあった。そのあたりは、駅からも少し離れていて、一種の住宅街であったのだが、開発を始めたタイミングがまずかったのか、少し他の地域に遅れたために、大型商業施設の誘致に失敗したのだった。
そのため、住宅街を作っても、そこまで人が入らなかった。
半分くらいは、分譲地もマンションも、残っている状態だったのだ。
夜になると、駅前から数分歩いたあたりから、街灯もまばらで、
「本当に都会なんだろうか?」
と思わせるところであった。
昭和の頃の商店街がアーケードを元に作られていたという話を聞いたことがあったが、確かに、アーケードの名残のようなものは残っていた。
商店街は、現存しているのだが、昼間でも半分近くはシャッターを下ろしているようなところだった。
「K市の、駅前商店街を通れば、たいていのものは手に入る」
と言われた時代は、20世紀までだったであろう。
一度すたれてしまった街を、再度活気のある場所にしようとするならば、集客できるだけの、何かがなければ成り立たない。
それが商品なのか、目新しい何かなのか、正直分かっていなかったのだ。
それが分かるくらいなら、すたれることもない。
そもそもすたれた理由は、
「郊外に、大きなショッピングセンターができたからだ」
というのが、一番の理由だった。
他にも、いろいろな理由があるだろう。小さな理由が無数に重なり合って、すたれてしまった街を照らし出しているのかも知れない。
そんなことを考えていると、あっという間にすたれていった商店街。やはり、
「時代の波に逆らえない」
と言ったところであろうか。
中には、郊外のショッピングセンターのテナントとして入っている店もあった。
その店は、アパレル系だったり、ブティック、さらには、宝飾店など、元々、商店街では浮いていたようなところであったが、だからと言って、郊外型のショッピングセンターに行ったからといって売れるとは限らない。
他に、もっと流行の先端を行っている、大型店舗の支店のようなところなので、そもそも、ネームバリューからして、太刀打ちできるものではないだろう。
そんな時代において、この街には、
「都会的なものや、流行の最先端を取り入れる」
というような器用なことができるわけではなかった。
「古き良き時代を振り返って」
というようなコンセプトから生まれて商店街は、昭和の頃であれば、かなりの賑わいがあったようだ。
何しろ、
「商店街を奥までいけば、ほしいものがすべて手に入る」
という触れ込みだったので、他の街に住んでいる人から、
「K市に住んでいるなんて羨ましい」
と、親の世代では言われていたということだった。
何しろ、昭和からいえば、
「バブルの崩壊」
「リーマンショック」
などというものがあり、
「失われた30年」
などと言われてきたではないか?
そんなK市だったが、次第に街を離れていくと、分譲住宅のまるで、
「棚田」
のようになったところがあるが、最近までは、更地が多かったが、今は住宅が建っている。
どうやら、近くの会社の社宅として、安価で貸し出しているようだ。
元々は分譲だったのだが、それではほとんどの土地が余ってしまうということで、行政が金を出すことで、そこに家を建て、貸し出すことになった。借り手の会社は結構すぐに見つかった。
その理由は、最近の社会事情にあった。
令和2年というと、例の、
「世界的パンデミック」
が、社会問題となった頃であった。
「学校閉鎖」
から始まって、
「緊急事態宣言」
と、まるで街が、昭和の時代の正月三が日のように、ゴーストタウンのようになってしまっていた。
そんな時期においては、
「店には休業要請、会社には、リモートの推進であったり、時差出勤の要請」
などを行っていたのだ。
県庁所在地の地下街などは、まるで、夜の十時以降から、朝の七時前のごとくであった。
もっとも、今の都会では、終電が出た後、電車や地下鉄が動き始めるまでは、地下街を封鎖するので、地下街の様子は分かりかねるが、夜と、始発が走り始める前後の1時間くらいは、そんなひどい光景がみられるのであった。
それでも普段であれば、朝の7時を過ぎた頃から通勤の人が増えてきて、店は開いてなくても、賑やかになっていることだろう。
しかし、緊急事態宣言ともなると、真昼間でも、電気が消えていて、開いている店がちらほらあるだけで、実に閑散としたものだ。
ネオンも、暗くならない程度につけられていて、点々とした店の明かりを見るしかない状態だった。
こんな時に開いている店としては、基本的に、
「一部スーパー」
「薬局」
「コンビニ」
くらいで、それ以外はほとんど閉まっている。
だから、ほとんど皆、家から出ないのだ。
電車に乗っても、朝の通勤ラッシュの時間に、1車両には、10人も乗っていないというありさまだ。
「これだったら、始発電車と変わらないじゃないか?」
というほどであったり、
その頃になると、もう違和感がなくなったが、皆がマスクをしているというのが、以前は、
「あの人、怪しい」
と言われていたのに、今では、
「あの人、マスクをしていない」
といって通報されたり、タクシーやバス、電車などでも、マスクを着用していないと、降ろしても構わないという政府の通達だったのだ。
逆に、次第にマスクが当たり前になると、
「マスクをしない方が、違和感があって嫌だ」
という人も出てきた。
マスクをすることで、人にこっちの考えを見抜かれずに済むということである。
やはり、時代が、
「個人情報保護」
という傾向にあることで、人に秘密を握られるということは実に困るということになるのだろう。
しかも、平成の頃から慢性化してきた、苛めなどによる、
「引きこもり」
と呼ばれる人たちにとっては、
「マスクをすることが、正義というのは、何とありがたい時代になったことか」
と思っているだろう。
しかも、緊急事態宣言の時代では、皆が引きこもりなのだ。逆に皆がそうだから、却って嫌だと思う人も多いに違いない。
そんな引きこもりの時に、皆が家にいるようになると、ある大きな社会問題が起こった。
作品名:パンデミック禍での犯罪 作家名:森本晃次