色々な掌編集
わたしが側に立ちましたのに、あのひとは視線を池の中に向けたままでした。そんなにあのひとを夢中にさせたものに、興味がわいてきましたので、わたしは池の中をのぞき込みました。
そのゆったり動いておりますものは水の色に溶け込んでいるようで、はっきりとはわかりませんでしたが、徐々に目も慣れてきまして、亀だと知りました。
「あぁ、あなたを夢中にさせたのは亀さんでしたの」と、わたしはあのひとの側にしゃがみ込み、さらによく見ると、まだ小さな亀の子が見えました。
なんと小さくて愛らしいのだろう。指なのでしょうか、手の先には糸のように細いものが見えておりまして、その小さな手で母親なのだろう大きな亀の頭に触っておりました。そう、小さな刷毛で塗りつけているようにも見えました。
よく見ると、触っては離れ触っては離れしているのでした。
「ああ、あっちへ行こうよと誘っているのかな」と言い終えて、わたしはあのひとの顔を見たのです。
「うん」そう短く言ったまま、あのひとはわたしをちらっと見て、すぐに視線を池の中に向けました。その横顔に、なぜか悲しいものを読み取ってしまったわたしは、慌てて視線を池に戻してしまいました。詳しい事情を聞くことはなかったのですが、奥様は子供ができない身体だということを聞いておりましたからです。
わたしがそれをやれる立場でもなく、それ以前にわたしが病気を抱えておりまして、子供を産める身体かどうかもあやしかったのでございます。