色々な掌編集
電車は渋谷駅に着いた。僕はミキがちらっとこちらを向いて表情としぐさで降りるのを確信して電車から降りた。
階段を降りる人並みにもまれながら僕はミキの姿を見失うまいとしたが、中肉中背のミキはすぐに人混みにまみれてしまった。どうすりゃいいんだ。僕は人の多さにうんざりしながら、その人の波に逆らわずに外に出た。
また公衆電話を探すことになるのかと思っていると、「ヒデ~っ」と叫ぶ声がした。声のする方へ顔を向けた僕はミキが手を振っているのが見えた。やれやれ、やっとミキと一緒になれるかあと思いがあって、自分でもその感情にあれっと思いながらミキに向かって歩き出す。
ところが、やはりそんなに素直なミキではなかった。
「すみませーん、急ぎますのでー」
ミキは突然大声をあげながら走り出した。僕は駅前の人混みがミキによって、まるでモーターボートが進んだように割れるのを見た。そして、引っぱられるように僕も走りだした。
ミキは依然として叫びながら走っている、もはや意味を持たない声になっている。そして僕もぴったりその後をついて走る。
草食系などと言われる僕は、草食系らしく走るのが得意なのだ。恋愛という点に関してはミキに少し引け目があったが、今はなぜか不思議な感情が湧いてきている。人の間を通り過ぎる時に、「えっ、なんかの撮影?」という声が耳に入ってきた。
坂道を走るミキの姿は、姿勢がブレないでたんたんと走っている。ミキも自信があるのかも知れなかった。少しずつミキに近づいている。そして、何故かミキの姿を美しいと思った。
だんだんとミキが魅力的な草食動物に思えてきて、そして僕はライオンになったような気分だった。ライオンのオスが狩をするかはわからないけれど。
それにしても坂道ばかりだ。と、さすがに息苦しくなった。ミキも走るペースが落ちた。もう人混みはなく、ミキも叫んではいない。
NHKホールが見えてきた。その手前の信号でミキがスピードを落として停まった。私も走るのをやめて歩き出す。この充実感は何だ。僕は新しい自分を発見したように思えた。
ミキが僕を見ている。僕は微笑んで手を挙げた。
「ねえ、覚えている。あそこ」少し息の弾んだ声で、ホール前の方を指さしながらミキが言った。僕は、その声が官能的に思えた。そして愛おしく思えた。そんな感情に少しだけとまどいながらミキの側に立った。
信号が変わってすぐ、ミキは再び走り出した。
えっ、またかよ! と思いながら、僕はゆっくり走りながらミキと初めてキスをした場所であることを思い出した。
少し靄のかかった空、春の太陽が沈もうとしている。ミキが木の下で僕が近づくのを待っている。ミキがバッグから携帯を取り出すのが見えた。あれっ、走っている間、バッグはどうしていたのだろうと思った。ミキは僕の携帯を取り出したあと、首から下げていたバッグを脇にずらした。そうか、前に抱えて走っていたのか。それで草食動物っぽく見えたのかもしれない。
ミキがすぐ目の間にいる。僕はじっとこちらを見ているミキの目から目を逸らさずにさらに近づいた。そしてミキを抱きしめた。そして何かを言おうとしたミキの唇を塞ぐ。地面に何かが落ちる音がした。それは多分僕の携帯だろう。しかし、今はこのままでいよう。